生活が苦しく、心に余裕を持てないでいた。
パートで息子3人を養う県北の香織さん。県内の母子生活支援施設を出た2005年、香織さんが29歳の時にアパートで4人の暮らしを始めた。
「勉強、やだな」。小学5年生の長男大貴君、3年生の次男亮太君には、そんな気持ちが募っていた。朝、布団から抜け出せず、休みが重なる。

「学校に行きなさい」
香織さんは強く促した。でも2人は動かない。
出勤時間が刻々と迫る。後ろ髪を引かれながら、家を出た。
子どもたちと真正面から向き合えないでいた。
部屋には三男も含め兄弟3人だけ。ある物を食べ、テレビを見たりゲームをしたり。他の誰ともかかわらず時が流れた。
◇ ◇ ◇
7年後の12年春。16歳の大貴君は、高校に進学せず家にいた。中3になった次男、小6の三男も学校を休みがちだった。
香織さんは悩みを抱え込んだまま。「大貴に仕事を見つけて、下の子たちを学校に行かせて…」
自らは職をなくしたばかり。工場や夜の飲食店でも働いたが、人間関係や生活ペースが合わず、続かない。「すべてが嫌だ」
もう何も考えられなくなっていた。
◇ ◇ ◇
「兄弟を何とかしないと」。そう考えていた地元自治体の相談員村上京子さんが繰り返しアパートを訪ねるようになったのは、そのころ。母親と話をする必要があった。
「子どもが社会で生きられるようにするのが、親の責任。お母さんはそれができていないのよ」
会うたびに繰り返す。 うん、うんとうなずく香織さん。
なのに、村上さんが家を訪ねると、状況は変わっていない。そんなことが数カ月間、続いた。
「なぜできないのだろう」。思いをめぐらせる。
責めても、追い詰めるだけ。「まず何ができるかを一緒に考えないと」
滞納していた給食費。村上さんは、その費用も支給される就学援助制度を紹介する。煩雑な申請の作業に手を貸し、援助につなげた。
「子育ては一人じゃむり。助けてもらえばいいのよ」。励ました。
何をどうしたらいいか分からず立ち往生していた香織さん。
「子どもたちの将来のため、できることをやっていけばいい」
そう思えた。
村上さんへの信頼感が強まり、香織さんの心が少しずつ開く。
変化は子どもたちに伝わる。
(文中仮名)