短編小説

1位 巣立ち前 石崎敬子(宇都宮)

 「ただいま」

静かに襖が開くと郁の顔が現れた。

 「えっ、どうしたの」

 口をついてでたのは「おかえり」ではなく「どうしたの」だった。夏休みが終わり、京都に戻ってまだたいして日が経っていない。郁は今年の春から京都で大学生活を送っていた。

 「連絡ぐらいよこせば駅まで迎えにいったのに」

 「いやあ、驚かそうと思って」

 園子は時計を見た。夕方の5時を回っていた。辺りはもう暗くなり始めている。今から買い物に行っては夕飯の用意が遅くなる。

 「ごめん。今晩はたいしたものできないよ」

 「いいよ。いきなり帰ってきたんだから」

 手を洗う音がする。郁がつけたのだろう。テレビからニュースが聞こえてきた。園子は台所で夕飯の支度を始めた。何かあったな、と園子は直感した。だが言いたくないのなら無理には聞くまい。園子は一人で郁を育ててきた。大学の進学も地元に残るという郁を、好きな大学を受けるように勧めたのは園子だ。さすがに京都まで離れてしまうとは考えていなかった。なにより郁のいない生活がこんなに味気ないものだと予想しなかった。お金がかかるからあまり帰ってくるなと口では言っても、帰ってくればやはりうれしい。茶の間をのぞくと郁は横になり、枕を抱いて寝息を立てていた。

  ◇

 翌朝、目を覚ますと園子は朝食の用意を済ませ、早々と庭へ出た。太陽の日差しが温かい。長い間手入れもしないで放っておいた庭だった。それが、郁が家を出てからは、休日の庭いじりが園子の日課となった。雑草を抜いたり、土を掘り起こしたりしていると、余計な感情に振り回されなくていいのだ。単調な作業が園子の心を穏やかにしてくれる。長靴を履いて、慣れない手つきで鍬を振り上げる。子どもの泥いじりと大して変わらない。要領が悪いと思うが、まあそれでもいいかと気楽に楽しんでいる。

 「お母さん、何やってるの」

 郁が起き出してきて園子の横に立った。

 「ここをレンゲ畑にしようと思って」

 「えー、そんなことほんとにできるの」

 「できるんじゃない。いつかは」

 そう、別に焦ることでもない。

 「ご飯は」

 「まだ。今起きたばかりだから」

 「じゃあ、一緒に食べよう」

 園子はからだを大きく反らせると、郁と家に戻った。

 久しぶりの娘と2人の食事。いつもはパンとコーヒーで済ませてしまうが、郁はご飯が好きだから今朝はご飯、味噌汁、納豆に卵焼きをつけた。郁がいるだけでこんなにも朝食が楽しくなる。郁は満足そうに味噌汁をすすると、テーブルに置いてあるチラシに目をやった。

 「観月会(お月見コンサート)って、これ今日じゃない。お母さん行くの」

 「行こうかなと思ってる。去年の演奏よかったから。今年も期待しているの。あなたも行かない」

 「行きたい。でも行っていいの」

 「いいのよ。誰が行っても。入場無料だし」

 このコンサートは園子の自宅の近くのお寺が毎年催している、お堂の中で聴くコンサートだ。去年初めて聴きにいったが、本格的な演奏で逆に驚いた。若い頃は演奏会によく出かけていったものだったが、今はそんな余裕はない。郁が卒業するまでは仕送りを続けなければならない。それは園子にとってプレッシャーであり、また励みでもあった。

 「さあ、ご飯終わったらお母さんもう少し畑作り頑張るわ」

 「じゃあ私も手伝おうかな」

 「今日は天気がいいから日に焼けるよ」

 「日焼け止めたっぷり塗ってやるから大丈夫よ」

 郁が面白がって鍬を振り上げる。2回目に振り上げたとき、背中に結構な量の土を被った。

「おお、農作業してるって感じ」

 郁は楽しそうに土を掘り返す。郁に特別変わった様子はない。普段よりはしゃいでいる気はするが。

 「カエルみっけ」

 今度はカエルの後を追い始めた。

 「カエルなんて珍しくもないでしょう」

 「でも京都に行って、カエル見たことないもの」

 両手を合わせるようにして郁が戻ってきた。見事カエルを捕まえたようだ。

 「よくカエルに触れること」

 「田舎育ちですから。ほら、可愛い顔してる。このカエル京都に連れて帰ろうかな」

 「京都に行くのと、ここにいるのと、どっちが幸せだろうね」

 「じゃあ、お母さんに世話をお願いしよう」

 「ふふ、今度帰ってきたらびっくりするよ。うちに王子様がいるかもしれないね」

 「ああ、それなんだっけ。アンデルセンかグリム童話か」

 「どっちだったかなあ。忘れちゃった」

 「そう言われると、高貴な顔立ちしてるわ。このカエルちゃん」

 「郁がいると、全然作業がはかどらないよ」

 園子は勝手に伸び広がった芝の根を鎌で探り探り掘り返した。娘と他愛のない会話ができることを幸せだと思う。笑いながら、目頭が熱くなった。

(私も年取ったな)

  ◇

 観月会は午後6時から始まる。10月も半ばを過ぎると、朝晩の冷え込みが急に厳しくなる。2人は厚手の上着を持って、歩いてお寺に向かった。お寺までは歩いても15分程度。お寺に続く坂道を上っていくと、ぞくぞくと本堂に入っていく姿が見えた。

 本堂の中は奥が一段高くなって仏様が奉ってある内陣。手前が一段低くなっている参拝用の外陣になっている。外陣に百ほどの椅子が並べてあった。みんな遠慮気味に後ろから座っているので、2人は遠慮せず一番前に陣取った。仏様の前にステージが作られている。ステージと椅子の間は約1メートル。

 「演奏会っていうより生ライブって感じ。テンション上がってきた」

 郁は面白そうに本堂の中を眺めている。園子は観客の方が気になって、後ろを振り向いては、知っている人を見つけると会釈をしていた。

 定刻になった。住職の挨拶のあと、ヴァイオリンとクラシックギターの奏者が登場した。この若い2人は夫婦だろうか。姓が一緒だし2人の会話から垣間見える親近感が会場を和ませた。演奏も一度は聴いたことがある曲ばかり。ヴァイオリンの堅苦しさはなかった。

 それにしても、ヴァイオリンもクラシックギターもなんて哀愁漂う音色を出すのだろう。辛かったら泣けばいい。みんな何かを抱えて生きているんだよ。と囁いて胸の奥にしまっていた箱を開けようとする。波瀾万丈の人生を嘆くヴァイオリンと側で静かに見守り続けるクラシックギターの音色。園子の胸にゾクッと感動の波が押し寄せた。最前列で聴けてよかった。音色がダイレクトに響いてくる。テレビやCDでは味わえない音との一体感が本堂にあった。最後に名曲チゴイネルワイゼンも聴くことができ、園子は十分満足した。

 演奏の余韻に浸りながら、園子と郁はゆっくり山を下った。

 「お母さん、よかったよ。お月見コンサート。ヴァイオリンの音がこうジンジン体に刺さるっていうか、なんか感動した」

 「そうでしょう。これで無料なんて信じられないわ。来年も聴きに来よう」

 月明かりが足元を照らす。郁は小石をよけながら弾むように歩いていた。

 「明日、午前中に京都に帰るね」

 「なんだ、帰っちゃうの」

 「だって講義あるもん。早く戻らなくちゃ」

 「まあ忙しいこと」

 「私が出かけるときって、お母さんいつも見送ってくれるでしょう。それなのにこの前帰るときは、台所にいて見送りに出てこなかったから。もしかして私が帰っちゃうのがさびしいのかなと思ってさあ。ずっと引っかかっていたから戻ってきちゃった」

 「え?それが理由?」

 園子は暗闇の中、郁の顔をのぞき込んだ。

 「うん。新幹線に乗って東京駅まで来たら、『帰ってきた』って感じた。不思議だよね。まだまだ家にたどり着かないのに」

 「あっ、思い出した。郁が帰るとき、ちょうど煮物していたの。火加減見てから見送ろうと思ったら、もういなかったのよ」

 「なんだあ。戻ってきて損した」

 「お母さんは得した気分。ふふ」

 「今週バイトの面接があるから、交通費はどうにかします」

 「どんなバイト」

 「下宿の近くの小さいパン屋さん」

 郁がパン屋で働く姿を想像してみる。郁は明るいし、接客は向いているだろう。来年レンゲは咲くだろうか。全ては園子の腕にかかっている。こつこつ時間を作って手入れするだけだ。郁の喜ぶ顔を見るために。