2位 鐘声(しょうせい) 齊藤宏壽(那須)

 「こんにちはー」。僕は玄関に入ると、2階に続く階段の上の方に向かって、大声で呼びかけた。さっきから呼び鈴を数度鳴らしたのだが何の反応もない。家人は留守らしい。

「こんにちはー」。顔を仰向けて又、階段の上に向かって怒鳴った。

 師は、目の前の階段を登りきった、20畳ほどのアトリエで仕事をしているはずである。が、返事がない。作品の制作に夢中になっているのかもしれない。だとしたら、迷惑になる。僕は、持参した僕自慢の手打ち蕎麦をそっと玄関に置くと、そのまま立ち去ろうとした。すると、

 「待っていろー、今、下りて行くから…」。ちょうどこの時、制作の区切りがついたのでもあろう、階段の上から師の声がした。

 高齢にもかかわらず、師の声は太く大きい。階段の上を見ながら待っていると、

 「暫くこなかったねえ」。こう言いながら、作務衣姿の師が手すりをさすって階段をゆっくりと下りて来る。白髪が微かに揺れて、骨格の正しい赤ら顔に、美しく垂れる。

 僕が感心するのは、こうして僕が訪問する度に、師は判を押したようにアトリエにいて、何時も作品の制作に取り組んでいることである。すでに、名を遂げ功を成し、中央の書壇でも名の知られた書家なのに、怠惰な姿を見たことがない。僕はつい思ってしまう。作品の創作はもう十分ではないかと。人生最後の数年くらいは、精神も肉体もゆっくり休まれてはどうかと。

 僕がこう思うのも無理はない。師はすでに89歳の高齢というばかりではなく、今は全くの盲目なのである。微かに残っていた視力も、十数年前に完全に失った。この時の苦悩を、師は、話そうとはしない。書家が視力を失うのは、音楽家が音を失うのと同じではないか。見えない目で絵を描こうとする画家と同じではないか。それにもかかわらず、師は今日も、その見えない目で墨を磨り、見えない目で紙を広げ、見えない目で筆を執り、見えない目で作品を作っていたのに違いない。その繰り返しの日常を決して倦まない師が、僕には不思議でしょうがない。その姿を想像するにつけ、僕は、師の愚直というほどの一途さに呆れる。同時に、その揺るがない信念の強さに、畏敬の念を抱かずにはいられない。

 僕は68歳。これでも、20代から50代までは、師の門下の末席にいて、僕なりに努力はしたのである。が、師の卓越した才能を理解するにつれ、僕は自分の才能に失望した。いわゆる「書」の世界の何かが、いつになっても、僕には見えてこないのである。師の言う「線質」というものが、いや、「書」の本質が、僕には、感動をもって捉えることができなかったのである。

 王羲之、欧陽詢、褚遂良、虞世南、空海等々の「線」の深みや生命力が、僕は、師のようには、感動的に理解できなかったのである。そればかりではない。芸術的な表現能力が元来、僕には備わっていないこともわかった。そうなると、書作品の制作は僕にとって、唯、時間とエネルギーをがむしゃらに投入するだけのものになり、疲労が先に立ち意欲が萎えた。僕は師の期待を裏切ることに葛藤しながら、結局は離脱者となった。 

 それにもかかわらず、どういうわけか、今日に至るまで図々しく、僕は師の家に出入りを許されている。

 「手打ち蕎麦は持って来たか?」。こう言いながら、師は階段を下り終わると、左手を前に出し、右手は廊下の壁を伝って、応接室へ僕を案内する。その両手は-師は洗ったつもりなのであろうが-まだ墨に汚れている。壁や柱の所々が汚れているのは、この、墨に汚れた右手のせいであろう。

 すると、前を歩いていた師は、僕が注意する閑もなく、軽く、額を壁に打ち付けた。

 「大丈夫ですか?」。あわてて、今度は僕が師の手を取って、応接間に導く。

 ソファに腰をおろすや否や、師は又、蕎麦を持って来たかと念を押す。

 「勿論ですよ、先生。午前中の打ち立てですよ」。こう答えると、ビン底眼鏡の奥の、小さな眼が莞爾として微笑む。師は無類の蕎麦好きである。僕はそのビン底眼鏡の厚さを測りながら、日頃の疑問を思いきって聞いてみた。眼は見えないのに、どうして眼鏡を掛けているのかと。

 「掛けないとね、どうもバランスが悪いのだよ。小学1年から掛けているからね。眼鏡は僕の身体の一部なんだ」。師は、こう言って笑いながら、それが当然のように、ハンカチで眼鏡のガラスを拭き始めた。その、眼鏡を拭く行為と、先ほど額を打ち付けた行為の矛盾に、僕は思わず笑いを噛み殺した。これでは、全く目が見えないのだと言っても、「本当は見えるんじゃないの?」。こう、勘ぐる人がいないとも限らないじゃないか。

 師は、完全に視力を失った直後、「無明」という、畳一枚ほどの作品を発表した。作品は、紙面全体が、僅かな「白」を残して、字画も分からないほどに墨で滲んだ、黒一色の世界であった。その作品の前に立った時、僕は、真っ暗な闇の向こうに、微かな明かりがボーッと、いや、希望の光みたいなものがポツンと灯っているような、不思議な錯覚を持った。この作品はマスコミでも、書壇でも話題になり、世間はこれ以後、盲目の書家として、師に特別の関心を寄せている。

 だからこそ、僕は、世間に妙な誤解を与えてほしくないのである。

 「何時も、美味しいお蕎麦を、有り難うございます」。こう挨拶しながら、家人がお茶を持って来た。

 「お父さん、お茶をここに置きましたからね」。家人はこう言いながら、師の手を取って、湯飲み茶碗に触れさせようとする。師はゆっくりと湯飲みを掴む。僕は又、この際だからと決心し、不躾を承知で質問した。

 「先生は以前、僕にこうおっしゃったことがあります。作品制作の醍醐味は、足下の紙面から終筆を持ち上げた時、『できたあ』そう叫びたくなる感動に出会うことだと。とすれば、先生、失明された今は、ご自分の作品を確認することができないのですから、その感動を味わう事はできないのでしょう?」。この質問で、僕が本当に知りたかったのは、感動を得ることができないのに、師は何故、日々倦まずに、制作を続けることが出来るのかということだ。

 「いや、そうじゃないなあ。眼が見えなくなっても、自分がたった今、いわゆる『ゾーン』に入っていた、そう思う瞬間があるのは以前と同じだ。その時『できたあ』そう心の中で叫びたくなるのも、視力があった時と変わりがないなあ。後日、作品について弟子達の説明を聞いてもね、そういう作品は不思議に、僕が頭に描いたイメージと一致するのだ」

 僕は思わず溜息をついた。師はもうすでに、僕などが覗けない高みの世界にいるのかもしれない。僕は、目の前の、盲目の89歳をまじまじと見つめ直した。

 「ところでどうだね?最近、良いものが書けているかね?」。こう、師は話題を変えた。

 このことを問われる度に、実は、少し心苦しい心境になる。「書」の道を断念した僕が、今では手探りで小説めいたものを書いているからである。幸い、地方の小さな賞を幾度か取って、なんとか体面を保っている。師は、その出版物を家人にでも読んで貰うのであろう、主人公の心理描写が巧みだとか、自然景観が目に浮かんでくるとか、いつもそう言って力づけて下さる。

 「実は…」。こう切り出して僕は、今年度は、ある賞を受賞したと報告した。

 「そうかあ、そうかあ。それは良かったあ。お目出度う。今度はどういうストーリーだ?」。師は見えない眼を僕に向けて、自分のことのように顔を綻ばせる。僕は恐縮しながら、大雑把に説明して、ホッとした気持ちを味わう。僕の心の中では今も、師の期待を裏切った負い目が消えてはいないのだ。

 「それにしてもサ、」。師は茶を口に運びながら、こう言い出して、僕を驚かせた。

 「こうしてサ、お互いが刺激し合う関係は、本当に良いものだねえ…。これからもサ、刺激し合う仲でいようなあ」。こう、しみじみと言う89歳の師の言葉に、僕は唖然として又、師の顔を見つめた。

 師はかつて、書道界の棟方志功と言われたことがある。そうして今は、盲目の書家と言われている。作品の繊細さと格調の高さは、他の書家の追随を許さないと批評家達は言う。師は僕には、雲の上の存在なのだ。僕とは、月とスッポンの違いがあるのだ。その師が、創作活動を刺激し合う相手として、今、真面目にけれんみも無く、僕の名を口にしている。これがどうして、恐縮しないでいられよう。どうして感動しないでいられよう。どうして心を奮い立たせないでいられよう。

 僕はやがて、早々と帰路についた。ハンドルを握りながら、僕は強く思った。師と刺激し合うに足る作品を、本当に書きたいと。

 僕は、盲目の師の制作姿勢を、改めて想うにつけ、68歳の怠惰と、現状に唯々諾々としている己の心に、思わず舌打ちをした。

 改めて考えれば、師との年齢差は21年ある。凡才でも「石の上にも三年」と言うではないか。僕にはその7倍のチャンスがある。勿論、師のような才能も、長命の保証も無い。が、僕には見える眼がある。健康も時間もある。そうして、熱いものが今、僕の心を火がついたように突き動かしている。

 「何時までも刺激し合う仲でいようなあ」。師の声が、僕の耳の中で鐘声となって、先ほどから鳴り響いて、止まない。