3位 つつじの森 河野真知子(上三川)

 寝不足と貧血で重い頭の奥で、ベルが鳴っている。じりり、じりり。ああ、まずい、バスに乗り遅れてしまう…。

 がばりと跳ね起きた。確かに甲高い音が自分を呼んでいた。ベルではなく、産んで間もない我が子の泣き声だ。

 「ああ……ごめんね、4時間経ったんだ」

 空はまだ白んでもいない。ふう、と息を吐いて柔らかな体をそっと抱き上げ、乳を含ませた。すぐに子どもは乳に吸い付き、じゅっじゅっとリズミカルな音を立てはじめる。

 再び部屋は静まり返った。まだうすら寒い空気の中で、子どもと触れ合っている場所だけが熱い。吸われているのはこちらなのに、小さな口の力強い舌から、熱が体の中へ広がっていくようだ。

 ふくふくとした頬が愛おしくて、そっと人差し指をあててみる。握られていた子どもの手が、静かに開いて頬をつつく指をとらえ、きゅっと握りしめた。ただの反射と判っていても、胸の底にじんわりひびく。

 子どもの体温で体が温まってくると、乳を含ませたまま夢のあわいへうつらうつら落ちて行った。寝てはいけない、と責める理性が遠くなってゆく。じゅっ、じゅっ。力強く吸われている、なんて、心地よい…。

 吸われるたびに、出産を済ませた子宮がぎゅうっと収縮する。腰が浮き立つようなこの感覚は何かに似ている。乳を与えるたびにいつも、記憶の昏い水底を指で探る。しかしどうしても掴めない。

   ◇

 織姫公園の坂を一心に登っていた。咲き乱れるつつじを男と見に行った。手を繋いでくれることのない男と歩くのは、幾度目だろう。その後肌を重ねると判っているのだから、これもきっと逢瀬ではあるのだ。骨立つ背中を追いながら考え、頬に火が灯った。

 華奢なサンダルで丘を登れば、息があがる。目を上げるとひとりになっていた。立ち竦む四辻は、眩むばかりのつつじの群れだ。赤い花と白い花がせめぎ合って同じ枝に咲いている。そんなはずはない、きっと違う木が絡み合っているのだろう。指を絡めて夜を過ごしてもなお、決して融け合えない二人のように。

 「こっちだよ」。声を掛けられ現実に引き戻された。「迷子になって不安だった?」。笑いを含んだ目がのぞきこむ。

 「赤い……花が、白い花の木に咲いていて」

 泣きそうになっていたことを悟られたくなくて、うつむきながらたどたどしく言った。

 「ああ。白い花の木と赤い花の木を混ぜて植えておくと、だんだん赤く染まっていくらしいよ」

 何でもないように返され、目を瞠る。

 「本当?」

 「そう。色味のある花の方が、白い花を侵食していくそうだ。きっと、この山は年々赤く染まっていくんだろうね」

 男が何気なく手を伸ばした先には、白地に緋色の筋が入った花が咲いていた。柔らかく花弁を撫でる、男にしては白く繊細な指先に視線を誘われる。急斜面でも差し出されることのない手が、宵闇の中では優しく触れる箇所が熱を帯びる。おんながおんなになったとき、恋は胸よりずっと奥の底に生まれるのだ。突然湧いた得心が重く延髄を貫いた。

 がくりと首が落ちて、うたた寝の夢がばちんと割れた。はっとして目を転じると、我が子の口が乳首から離れている。飲み疲れて寝入ってしまったのだろうが、きっと乳は足りていない。慌てて逆向きに抱き直し、口許をつついてもう片方の乳首をそっと含ませる。

 休み休み、それでもなんとか吸い始めた感覚に安堵し、再びさっきの夢を辿る。眼裏に赤いつつじの森が広がる。あの男とは、程なく縁が切れた。好きとも言われず、先は無いと判っていた。それでも縋らずにいられなかった。胸を裂いて相手に与えることが恋ならば、あれは間違いなく初恋なのだろう。

 白いつつじがくれないに染まっていく-。真実かも判らない言葉に囚われ抜け出せない。白いままの自分には決して、男の色に染まる日は来ない。たった一筋でも、都会的な素肌の色がうつることはない。

 縁が切れて、スマートフォンから連絡先が消えた。SNSのログを消してしまえば、何も残っていなかった。数分で消える情報が、縋った縁のすべてだったとは思わない。それでも、無垢な花に緋色の筋が刻まれる時間すら、二人の間に流れなかったことが切なかった。街中で、一度だけ姿を見かけた。ああ好きだ、と思った。かつて触れられた箇所がつくんと痛んで、発車ベルが鳴るバスの手前で足が止まった。

 白い花は、どうやって赤く染まってゆくのだろう。年々緋色の筋が増えて、いつしか赤く染まるのだろうか。赤いノイズが頭の芯でちらちら揺らめく。織姫公園の斜面を駆けのぼるような赤が、喉元から溢れてきそうだ。未だに私はあの人を忘れられないの。だってこんなに胸が痛い。恋を吸われ、赤く刻印された胸が今でもこんなに引き攣れて…。

   ◇

 遠くで烏の声がする。我に返れば、子どもは再び寝息を立てていた。体は冷えていないようだ。カーテンの向こうが少し明るんで、今日が始まったことを知らせている。また寝ちゃった、と自嘲をこめて呟き、時計を見ればたいして時間は経っていなかった。

 吸われていた乳首から、じんわりと冷えが広がってゆく。頭がはっきり冴え始めると、胸の痛みが退いてゆく。

 あんなにくっきり思い出していたはずなのに、男の顔はつつじの花に紛れてよく見えなかったような気がする。声はどうだろう。低く甘い記憶の中の声は、実際とは違っているだろうと、わかっている自分が居る。

 逢わなくなってしばらくは、男の香りが慕わしくてならなかった。残り香の染みたクッションに顔を埋めて、幾度泣いたかわからない。そのクッションはどこへいったのだろう。思い出しているうちに、突然気付いた。男の残り香と思い込んでいたけれど、あれはただの香水の匂いだ。同じ香りをさせている男など、この街にどれだけいるかわからないありきたりな品だ。けもののように男が発する生身の匂いなど、自分は何一つ知ってはいなかった。

 鼻の奥でくすりと笑う。なーんだ、と呟き、子どもを寝かせるために膝を立てた時、肩にふわりとカーディガンがかけられた。

 「冷えるよ。ごめんな、気付かなくて」

 小声で夫が詫びる。首を振って微笑んだ。

 「いいの……ごめんね、起こしちゃった?」

 「そろそろ時間だし。ご機嫌? 笑ってたね。」

 古い感傷が可笑しくて鼻で嗤ったところを、見られていたらしい。うしろめたさが心の浅瀬を、魚影のようにすり抜けてゆく。軽く首を振って脳裏から幻影を追い出した。

 「ううん。可愛いなって思って。ほら、おっぱいあげていると、指を掴むじゃない?」

 寝付いた今でも母の指を握って離さない我が子を掲げるようにすると、黎明の薄暗がりの中で夫が目を細めた。

 「ほんとだ。反射って判っていても、可愛いな。頼られてる感じがするっていうか」

 頬をつつく横顔を見つめる。浅黒い顎のライン、秀でた額から流れる高い鼻梁。夫と同じことを思っていたことが誇らしく、そんな自分が妙に気恥ずかしい。

 小さな体をベビー布団に寝かせ、柔らかく毛布をかける。肘枕をついてとん、とんと我が子をあやす夫の耳元へ顔を埋めこませ、すうっと息をする。寝起きの、濃厚な男の匂いが立ち上った。

 「やめろよー。朝っぱらから加齢臭チェックかよ」

 くすぐったそうに身を捩るから、くすりと笑って頬にキスをしてやった。皮脂と伸びた髭の感触が、再び子宮を引き絞る。

 ぬくもりの残る毛布の中に半身を潜り込ませ、我が子を挟んで肘枕で向かい合った。

 「すごいな。こんなに小さい身体に、俺とおまえが混ざってる。染色体って神秘だな」

 確かに額と鼻梁は夫に、つんと上向いたくちびるは自分に良く似ている。

 「染色、体。ほんとね。人も、染まるのね」

 たった十月十日の間に人は、わずか46本の染色体で見事なモザイク画を描きだす。

 あたしが染まることは無かったけれど-。子どもに頬を寄せる。息が甘く匂った。

 「健診過ぎたら、外へ散歩に行けるんだろ」

 ん?と顔を見ると、夫は微笑んで続けた。

 「織姫公園へつつじを見にいこう。この子には綺麗なもの、いっぱい見て育ってほしい」

 一瞬目を瞠り、くっくと笑って崩れ落ちた。

 「なんだよ。俺可笑しいこと言ったか?」

 囁く声にううんと首を振り、目の端に溢れた笑い涙をぬぐいながら身を乗り出した。

 「同じこと考えてたの。夫婦ってすごいね」

 くちづけのその下で、節の立った働く男の手が、布団に置かれた白い手をさぐる。

 「大好き」

 指を絡めて囁く。大きな手がするりと抜け出し、額にかかる細い髪を優しくかき分けた。節だつ男の指に、髪がつやめいた影を落とす。

 「染まって来たな、おまえ。俺に」

 あ、と洩れた声がまた、くちびるごとふさがれて融ける。

 瞳を閉じれば、脳裡につつじのくれないが広がった。深紅、桃色……水に落としたインクのように、花の色が湧きあがる。力強く手を引かれ、デッキシューズで急斜面を登ってゆく。どんなに花の壁が迫ってきても、つながれた手が離れることはない。しばらく動かしていなかった体がうずいて、伝わる熱が胸郭を広げてゆく。今すぐにでも駆け登りたい。

 「行こうよ、つつじ見に。手をつないで、連れていって」