足尾銅山が閉山して23年後の1996年、一つの市民団体が産声を上げた。
「足尾に緑を育てる会」
過疎化が続く足尾町=当時=の将来を考える地元団体、鉱毒事件や田中正造(たなかしょうぞう)の研究、教訓の継承を担う団体が結成した。
下流域が鉱毒に翻弄(ほんろう)された渡良瀬川の源流、銅山の煙害で荒廃した山に緑を戻す植樹活動の下、「上流」と「下流」が足並みをそろえる-。銅山と共に歩んできた足尾は、閉山後の転換期を迎えていた。
発端は、宇都宮市内で昭和期の70~80年代初め、若者の文化発信拠点の草分けだったアートスペース仮面館。決して広くない店内で始まった「足尾」がテーマの連続講演会には、後に育てる会を支える面々が集まった。
その一人が当時町職員の神山英昭(かみやまひであき)さんであり、作家の立松和平(たてまつわへい)さんだった。
上流と下流の分断が色濃い時代。鉱毒事件に負い目を感じ「足尾出身」と口にできない町民がいた。そんな中、下流との交流を始めたのが神山さんだった。
15年ほど経て、育てる会は生まれた。自ら初代会長に就き、2011年に74歳で亡くなるまで尽力した。前の年の10年、62歳で急逝した立松さんは春の植樹デーに毎回参加し、活動を盛り上げた。
緑の再生は今も続く。植樹活動への参加者は延べ20万人を超えた。参加者160人から始まった試みは、今や足尾の一つの象徴となった。
かつて鉱都をなした足尾銅山は1973(昭和48)年2月28日、閉山した。
あれから半世紀。90歳を過ぎた元鉱員にとって銅山は「家族を養うため、命懸けで働く場」だった。ヤマの灯が消え、人は減り、店は減り、不便は増えた。一方で足尾はひ孫まで4世代が集う、かけがえのない場所になった。
銅山を経営した古河鉱業(現古河機械金属)。足尾は「古河グループの礎を築いた地」だ。半永久的に続く坑廃水処理、堆積場の維持管理に2021年度は約8億円を投じた。
閉山に揺れた町の対策が一段落した頃、銅山の光と影を見つめ直す動きは出始めた。栄光と悲惨さを味わった歴史を誇りにすべし-。1992年に立松さんが足尾で語った言葉を、記憶にとどめる人は少なくない。
足尾は2006年、日光市の一地域になった。人口減、高齢化は進むが、現在1500人余りが確かに暮らす。
日本一の鉱都、企業城下町、公害の原点、過疎、緑化。「足尾」の歴史は重く、そして深い。だからこそ、その存在は大きい。
いま足元を見れば、気候変動が生活を脅かし、東京電力福島第1原発の廃炉が見通せない中で原発回帰が進む。過去、現在、未来を映す「足尾」の意義は一層重みを増している。
6月中旬、足尾の北部に立った。育てる会が第一歩を踏み出した地。草木一本なかった山肌は様変わりしていた。50年、100年先、どのような光景を見せるのだろう。一面の緑を感じながら、思いを巡らせた。「銅(アカガネ)のこえ」は、こだまし続ける。