調べるたびに、興味が湧いた。日光市足尾地域北部の旧松木村。祖先が暮らした地。幼い頃、家の囲炉裏端で聞いた年寄りの昔話は、いつしか調査研究の対象になった。

 同市細尾町、星野茂(ほしのしげる)さん(74)が、村に関心を持ち始めたのは60歳。大病を患い、静養していた時だった。家に残る古い文書を広げ、昔話の記憶もたどった。

 「クワの葉が枯れ、パラパラと落ちた」「草を食べた農耕馬が死んだ」「『松木っぽ』と言われていた」

 足尾銅山の煙害で、今はない渓谷の村。「後世に残したい」。先祖が村を離れて4代目の星野さんは研究を続ける。

   ◇    ◇

 養蚕が盛んで豊かだった村で、明治期に入り被害は顕在化した。製錬所からの亜硫酸ガスで山林は荒れ、農作物は枯れた。1887(明治20)年の大火が追い打ちをかけた。

 銅山発展の一方で被害は深刻化した。92(明治25)年に250人超が暮らしたが、生業を失い村を離れる者も出た。25戸が残った村は最終的に、総額4万円での村売却で銅山側と示談した。1902(明治35)年、廃村。銅山からの鉱毒で旧谷中村(現栃木市)が強制廃村となる4年前だった。

龍蔵寺にある旧松木村の石塔。煙害や大火で黒ずんだと伝わる=15日午後、日光市足尾町赤倉
龍蔵寺にある旧松木村の石塔。煙害や大火で黒ずんだと伝わる=15日午後、日光市足尾町赤倉

 「場所が分からなくならないよう、お墓を何基か残したと聞いています」。製錬所跡から渡良瀬川の対岸、龍蔵寺(日光市足尾町赤倉)の植木徳念(うえきとくねん)住職(75)が松木村の地図を前に話す。

 境内には村にあった石塔254基がピラミッド状に並ぶ。昭和30年代初頭、先々代住職が運び合祀(ごうし)した。同じ頃、廃村から54年後の1956(昭和31)年、製錬所で抜本的な排煙対策が取られた。

   ◇    ◇

 村跡に現在、集落の痕跡はほぼない。銅製錬で出た鉱さいの堆積場が目に付く。周囲の山は岩肌がのぞく。物心ついた星野さんが訪れたのは中学生の時。「墓参りに」と父に誘われた。

 

 その父は72(昭和47)年、村民の子孫と「松木会」を立ち上げた。数カ月後、足尾銅山は閉山した。盆や彼岸に龍蔵寺へ集まった子孫たち。しかし会を支えた父らが鬼籍に入ると、活動はなくなった。

 2020年、星野さんは父と同じように、小学生の孫らを連れて行った。

 廃村の歴史を無にしない-。自宅に残る会の趣意書には先祖への思いに加え、「人命尊重の無公害の重要性」との言葉も並ぶ。

 縦書きの用箋には、こうもつづられている。「社会に対し貢献すべきは、公害第一号被害者子孫に与えられた使命でもある」