第1次オイルショックでトイレットペーパーの買い占め騒動が起き、五島勉(ごとうべん)氏の「ノストラダムスの大予言」が出版された1973(昭和48)年。足尾銅山が閉山したこの年、第2次ベビーブームはピークを迎えていた。
父親が坑内で働いていた児玉美子(こだまよしこ)さん(62)は、その年の卒業式をよく覚えている。閉山時、足尾町本山小の6年生だった。今は家族と神奈川県内で暮らしている。
みんな号泣した。別れ別れになる。そういう空気になった。「こんなに卒業式で泣くって、あるのかな」というくらい涙した。
閉山を機に、足尾を離れた同学年生や親戚は多い。
当時住んでいたのは社宅の長屋。共同風呂は毎晩、友達と話す場でもあった。「うち、引っ越すんだ」。皆と足尾の中学校へは行けないのかな。不安だった。
閉山の時の思い出はあまりない。父から足尾に残ると言われ、とにかくほっとしたのは覚えている。
生活をどうするか。「大変な思いだったと思うんです」。高校卒業まで過ごした足尾の実家で、卒寿を迎えた父、浅見幸雄(あさみゆきお)さんをおもんぱかった。
あれから50年。足尾は様変わりした。父のように残った人はいた。まだ町に活気があった時期もあった。今は違う。人がいない。子どももいない。
本山小は2005年に閉校した。日光市足尾地域で唯一となっていた足尾小と足尾中は22年、併設校となった。
直利(なおり)音頭はにぎやかだった。足尾ならではの盆踊り。浴衣を着て踊る。かき氷や綿あめ。会場には店も並ぶ。大人になり、夫や子どもたちを連れて楽しんだこともある。だが実家の地区では、開かれなくなって久しい。
直利音頭が行われる納涼祭は今、中心部だけに残る。
銅山最盛期の伝統を伝える町を挙げた足尾まつり。良質な鉱脈の発見を願う山神祭を受け継いだその祭りは、20年から開かれていない。
製錬所は夜、こうこうと明かりがともり、すごかった。仕事上がりの大人たちが行き交った。跡になった今は、真逆の光景。寂しく暗い。怖いと感じてしまう。
今の足尾を見て痛感するのは「もうちょっと活気づいてほしい」。次代の人が店を継いでいるような姿を見かけることもある。しかし町を覆う極端な過疎に、懸念は尽きない。