「協力します」
その一言に、会場にいた誰もが顔を見合わせた。あまりの衝撃に、歓迎の拍手すら忘れるほどだった。
言葉を発したのは、当時の吉野哲夫(よしのてつお)古河機械金属社長。市民団体「足尾銅山の世界遺産登録を推進する会」を中心に機運が高まっていた運動で、古河が手を携える方針が初めて表明された瞬間だった。
足尾銅山の御用写真師だった小野崎一徳(おのざきいっとく)が残した写真を孫の敏(さとし)さんがまとめ、2006年12月に出版した「小野崎一徳写真帖(ちょう) 足尾銅山」の出版記念パーティーでのことだ。
東京都内の会場には、足尾からも住民がバスで駆け付けていた。「あの言葉は本当か」。帰路の車中は、吉野社長の発言の話で持ち切りだった。
◇ ◇
推進する会は06年10月、「考える会」として発足した。同じ鉱山跡で07年に世界遺産登録される島根県の石見銀山遺跡が、01年に登録の前提となる暫定リスト入りしていた。
会の礎となったのが、市町村合併前の旧足尾町が手がけた観光振興計画「全町地域博物館化(エコミュージアム)構想」。産業遺産を生かす計画だったが、肝心の古河が主要な銅山関連施設の保存に大きく乗り出すことはなかった。
「鉱山保安法で、安全上の問題がある。駄目なものは駄目。だけど全部壊すと、ヤマにあった製錬所の歴史も全てなくなってしまう」。当時を知る古河OBは振り返る。世界的な環境問題への意識の高まり、重視されるCSR(企業の社会的責任)…。「『社会的責任を見える形で果たしていこう』という流れがあった」
吉野社長の前向きな発言は、そんな時代の流れの中で生まれた。
◇ ◇
出版記念パーティーを境に、歯車は大きく回り出した。
日光市は07年5月、古河の現役幹部も加え世界遺産登録に向けた検討委員会を設立。同年9月には国内暫定リスト掲載を目指し、日本の近代化を映し出す足尾銅山の歴史などをコンセプトとした提案書を文化庁に提出した。
だが1年後の08年9月、文化庁が出した結論に「足尾」の文字はなかった。
旧足尾町の最後の町長で、推進する会の神山勝次(かみやましょうじ)会長(79)は「駆け込みで、準備が足らなかった」と唇をかむ。以降、文化庁は自治体からの候補公募を打ち切り、現状は世界遺産登録実現への道のりは険しい。
それでもなお、活動は神山会長も自認する「一つの成果」をもたらした。