白黒の写真を見ながら、あの頃を振り返る浅見さん。懐かしい顔が並ぶ=2022年12月中旬、日光市足尾地域

 足尾の歴史は、銅山の歴史そのものといわれる。そこで働いていた人たちにとっても、閉山は大きな分岐点だった。足尾に残り、共に年を重ねた元鉱員。今、何を思い、どう暮らすのか。元鉱員やその家族を通して足尾を見つめる。

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 半信半疑だった。鉱源の枯渇。とは言っても、ある所にはある。閉山。聞いた当初は「そんなことは、なかんべな」と思っていた。

 その何カ月後だったか。ヤマの灯は消えた。1973(昭和48)年2月。仕事場だった坑内には、最後の最後まで入っていた。外では雪が舞っていたと覚えている。

 2022年10月下旬、日光市足尾地域の北部。訪ねた庭先で出会った小柄な男性が、元鉱員の浅見幸雄(あさみゆきお)さん(90)だった。

 足尾銅山の通洞坑で働き出したのは1955(同30)年から。3年後の年、東京タワーが完成した。閉山までの期間は日本の高度経済成長期と重なる。

 キャンバス地の前掛けをして坑内に入る。ヘルメットから辺りを照らすキャップランプは以前、カンテラだった。さく岩機で鉱石に複数の穴を開け、爆薬を詰める。少しずつ長さが違う導火線。順に火を付け、急いで離れる。

 命懸けだった。

 知らない作業場に行くと、案内された。「ここは誰々が死んだ。ここは誰が…」と。事故で亡くなった人の名で呼ばれる場所もあった。

 30代後半。頭に石が当たり、坑内を落下した。高さ8メートル。よその坑道の発破の衝撃で落ちてきた石だった。仲間からは死んだと思われた。運び出された坑口で気が付いた。脳天に刻まれた痛みは、今もふとよみがえる。

 閉山には反対した。危険な目にも遭ったが、家族を支えるための仕事。「子どもは小さい。一人前になるまでは何とか」と望んでいた。

 ヤマの仲間の多くは50年前、足尾を離れた。故郷にとどまったのは小さい子どもがいたし、何より親を残しておけなかったからだ。

 今は妻の稲子(いねこ)さん(87)と2人で暮らす。

 年を取るにつれ、不便は増えた。知り合いは減った。「残っているのは俺一人」。かつて「ヨロケ」と呼ばれた職業性のじん肺で早くに亡くなった仲間も少なくない。あの頃、妻に毎日洗ってもらった防じんマスクが浮かぶ。

 「今考えると、閉山したから、長生きしているんだな。早く閉山になってよかった」

 自宅の居間で、浅見さんは50年前を思い返し、そう語った。表情は優しい。視線の先に孫やひ孫、家族の写真が並んでいた。