155年前のちょうど今頃、実はここ栃木県で、かの有名な戊辰戦争の激しい攻防戦が繰り広げられていたことをご存じだろうか? 江戸時代の終わり(旧幕府軍)と明治時代の始まり(新政府軍)が激突した、日本の行方を決める主導権争い。あの新選組副長だった土方歳三(ひじかたとしぞう)も、この県内で何度も激闘をしていたんだって。栃木県生まれのゼミ生全員が知らなかったこの特大事件、詳しく調べてみたい! よぉし、彼らの過酷な戦線を順にたどって、今回は歴史散歩だ!(佐藤麗奈(さとうれいな)、長嶋優太(ながしまゆうた)、小高明日奏(こだかあすか)、室岡巧輝(むろおかこうき))

■最初の戦場は小山 阿弥陀如来像に残る弾痕
散歩の起点は、私たちが通う白鴎大から徒歩10分の常光寺。そこに安置されている阿弥陀如来像には、明治元年の1発の弾痕が今も残っている。近づいて見てみると、わぁ…像の後ろ側が、バキッと1カ所だけ壊れてる! そう、この一帯は5月8日(以下、月日の表記は現在の新暦)に、栃木県最初の戦場となったのだ。小山市付近では2日間にわたって4回の戦闘が起こり、激しい銃撃戦と白兵戦(刀ややりを用いた戦い)になった。
銃を装備する洋式戦術に優れていたという旧幕府軍を指揮するのは、大鳥圭介(おおとりけいすけ)と土方歳三。徳川家康(とくがわいえやす)がまつられた日光東照宮を旧幕府軍側の要所にしようと考えた彼らは、日光を目指し二手に分かれて北上を開始した。

そして、栃木県域に入った大鳥がまず通りかかった小山市で、待ち構えていた新政府軍と衝突したのだ。大鳥の作戦はどれも勝り、敵の援軍が来ても、休憩中を狙われても、白星を挙げ続けたという。そうして小山の戦いは、戊辰戦争において数少ない旧幕府軍の勝利となった。
■宇都宮城巡り激戦 旧幕府軍が一時は奪還
小山での戦いを制した旧幕府軍は、すぐに宇都宮へと進軍した。その後を追って、私たちも宇都宮城址公園に行ってみた。城の建物は戊辰戦争で焼失してしまい、今は一部の門の跡や土塁などしか残っていないけど、解説たっぷりの「ものしり館」で物知りになれる。
小山の戦いからわずか中1日の5月11日、新政府軍側が陣取っていたこの宇都宮城に、土方率いる旧幕府軍が南東方面から攻撃を開始した。江戸時代、ここは東北地方から来る仮想敵への備えを意識した北向きの城で、しかも南東部は湿地で川も流れ、守りが薄くなっていたそうだ。そこを突いた戦法が功を奏したのか、旧幕府軍は宇都宮城の奪還に成功する。

実はこの勝利、その場にいなかった大鳥圭介の存在が大きいと、宇都宮市文化財保護審議委員会の大嶽浩良(おおたけひろよし)副委員長は指摘する。もともと全国の城の絵図を管理する幕府の役人だった大鳥が地形を把握し、宇都宮城の弱点を分析した結果、なんと戊辰戦争の中で唯一、旧幕府軍が(一時的にせよ)城を取った戦いになったというのだ!
宇都宮城奪還の知らせを聞いた大鳥軍は、土方軍と合流。一方、城から敗走した新政府軍は壬生城に陣を取り、すぐさま同月14日、逆襲を開始した。
私たちの散歩先は、宇都宮と壬生の中間地点である安塚に移る。大嶽さんに案内され、住宅地の道路沿いに何げなく立つ、旧幕府軍の戦死者を弔う墓碑を2カ所巡ってみた。ここでの戦いも前半は旧幕府軍が優位だったが、予備隊を増強した新政府軍と激しい天候の中で戦況は反転! 大鳥が体調不良で戦線離脱していたことも災いしたのか、旧幕府軍は敗北した。
勢いづいた新政府軍は宇都宮城の再奪還を試み、翌15日、城下入り口の六道で待ち構えていた旧幕府軍と激戦になった。宇都宮城の北西側の守りは固いはずだったが、新政府軍側の改良銃は旧幕府軍を苦しめ、土方歳三も松ケ峰門付近で足を負傷したのではないかともいわれている。一進一退の攻防の末、ついに新政府軍の総攻撃が始まり、立てこもっていた旧幕府軍は一斉に城外に逃れ、要所である日光へ向かった。
■戦火を逃れた日光 今市では大きな被害も
日光の名所「神橋」の脇に立つ、新政府軍の将・板垣退助(いたがきたいすけ)の銅像。私たちが訪ねてみると、立て看板に「社寺を兵火から守った遺徳を讃(たた)え…」と書いてある。そう、板垣のおかげで、日光で激しい戦いは起こらなかったのだ!
旧幕府軍が補充用に製造した500発の弾薬が不良品で使えなかったのも一因らしいが、もう一つ、家康をまつる東照宮をはじめとする日光の文化財が兵火で焼けてしまうのを防ぐために、板垣が旧幕府軍を説得して戦いを回避したともいわれているのだ。

でも、それは日光だけの話。その後、旧幕府軍は会津藩が加わり会幕連合軍となって再び転進、戦いの舞台は今市へと移った。6月11日からの今市での戦いは、特に地元が大きな災難を受けた。私たちが訪ねた法蔵寺がある大桑町一帯は新政府軍に焼かれ、大改修の完成3日後だった法蔵寺も赤門以外の建造物が全焼してしまったという。本堂の横にあったカシの木には今でもその時の火傷の跡が見え、前住職の長田善生(おさだぜんしょう)さんは「この木を『生き証人』として残していきたい」と語ってくれた。
その後、持久戦になった戊辰戦争は県内のあちこちで続き、10月12日を最後に栃木を離れてさらに北上、会津方面へ。私たちの追跡散歩も、ここまでとなった。
初耳だらけだった、下野の戊辰戦争。周囲の同世代に聞いても、知っていた人は108人中わずか12人! 知れば知るほど、まだまだ面白そうだ。
散歩を終えて
今も新事実掘り起こし
今回散歩先でいろいろな方から情報をいただきましたが、特にお世話になった「下野の戊辰戦争」著者の大嶽さんは、ちょうど今宇都宮市の市民大学で、同名の講座を開いています。定員の2倍も応募があって締め切られる、大人気! そして今もなお、大嶽さんは興味深い新事実の掘り起こしを続けています。あなたも、ゆかりの地を散歩してみませんか?
