益子町もまた、企業進出の影響を受けてきた。
町史によると、1889年に七井、益子、田野の3村ができ、94年に益子村が町制を敷いた。1954年、3町村が合併し、現在の益子町となった。
当時の人口は約2万4500人。それが60年代終盤に1万9300人ほどに減る。大都市圏の工業地帯への供給地として若年労働者が大量に流出した。
流れは各自治体が力を入れた工場誘致で変わる。町も条例を定め、優遇措置を決めた。日東食品製造やリズム時計工業、中でも68年、ペンタックスの名で知られた旭光学工業の進出が大きかった。下請けも含め雇用を大幅に拡大させた。
70年代後半に旧真岡農業高教員だった日渡守(ひわたしまもる)さん(75)は「特に女子は『ペンタックスに行きたい』という声ばかりだった」。
66年に益子焼の陶器市が始まり、民芸ブームで観光も活性化した。元町職員の大岡忠男(おおおかただお)さん(82)は「当時は好況感と活気にあふれていた」と振り返る。
新興住宅地ができ、益子高、益子西小と学校も増えた。93年には人口が2万5千人を超えた。
しかし2000年ごろから減少に転じ、工場は減り、ペンタックスも撤退した。20年の出生数は80人と少子化も進む。大岡さんは「益子は昔から外からの人を受け入れる土壌がある。移住、定住が増えてほしい」と願う。