カタールワールドカップ(W杯)でドイツ、スペインの強豪国を撃破し、決勝トーナメント進出を果たしたサッカー日本代表で2人の本県関係者がチームスタッフとして貴重な役割を果たした。森保一(もりやすはじめ)監督を支える存在として歴史的勝利へどのように導いたのか。対戦相手の分析を担当したテクニカルスタッフ、宇都宮大出の寺門大輔(てらかどだいすけ)氏(48)とコーチを務めた真岡市出身の上野優作(うえのゆうさく)氏(49)にチームや大会の裏側を聞いた。

 
 寺門大輔◇1974年、東京都生まれ。10歳の時に父親の仕事の関係で宇都宮市へ転居。雀宮中、宇都宮高、宇大、筑波大大学院を経て99年からV川崎(現東京V)のスタッフ。2014年から日本サッカー協会でA代表や世代別代表チームの分析担当を歴任。

 

 -今回のW杯での役割、担当は。

 「分析担当が4人いて、私を含めた2人が中心。試合ごとに分担し、私はドイツ戦、スペイン戦と勝ち進んだ場合の準々決勝を担当した」

 -事前の情報はどのように集めたか。

 「情報は比較的入りやすく、ドイツとスペインのリーグでプレーしている日本人選手から話を聞けたことが大きかった」

 -現在の分析方法はどのようなものか。

 「これまでは事前の準備が中心だったが、今は試合中も終了の笛が鳴るまで分析を続けている。自分たちはずっと同じシステムでやることはなく、準備したことに対し相手がどう対応してきたか、前後半の各45分間について5分間ずつ9回に分ける感覚で分析し、相手の出方に対応した」

 -試合中はベンチで具体的にどういう作業をしていたのか。

 「ベンチにはいたが(俯瞰ふかん)した映像が流れる端末しか見ていない。ピッチ上で何が起きているのか把握して伝え、事前の分析を踏まえて相手の出方の予測や相手ベンチの動きを見てどうすべきか話をした」

 -担当した2試合で勝利を収めた。

 「いろいろな準備をして負ける要素はつぶしてきたつもり。相手の力は分かっていたが勝てる確信は持っていた。ただ、監督や選手の決断に貢献するのは当たり前のこと。監督や選手が笑顔で試合を終えられたのはすごくうれしかった」

 -大会で思い出に残る出来事は。

 「ドイツ戦の試合後、宿舎に帰って森保監督と二人きりになった時に握手をしてもらったことが、一番印象に残っている」

 -目標だった8強に届かなかった。

 「ずっと8強と言い続けてきただけに悔しい。PK戦も含めまだまだできたことがあったはず。次へつながる検証や反省をして課題を明確にしたい」

スペインに逆転勝利で決勝トーナメント進出を決め、喜ぶ選手を笑顔で見守る上野氏(右奥)=ドーハ
スペインに逆転勝利で決勝トーナメント進出を決め、喜ぶ選手を笑顔で見守る上野氏(右奥)=ドーハ

 -4年前のロシアW杯も分析を担当した。

 「ハリルホジッチ監督が解任され、西野朗(にしのあきら)監督が就任した18年4月に担当になり、当時は3人体制の中でコロンビア戦を担当。決勝トーナメント1回戦のベルギー戦も担当し守備中心に戦うことを考えた。相手が攻撃に移ったときに弱点があると分析していた」

 -過去に対戦相手の情報入手に苦労したことは。

 「2016年のリオデジャネイロ五輪予選前に相手チームの非公開の練習や試合の映像を隠れて撮影した。中東の厳しい国では部屋に閉じ込められて詰問され、所持品を没収されたこともある」

 -そこまでして情報を収集する必要があった。

 「五輪代表監督だった手倉森誠(てぐらもりまこと)監督が緻密に絵を描く監督。相手の戦術や特徴を把握した上で選手起用やプランを考えていたので詳細な情報を入手しなければならなかった」

 -V川崎ではどのような仕事を経験したか。

 「最初は選手の年俸を査定するための指標を作成するメンバー。その後は対戦相手の試合をスカウティングするようになったが、外国人選手の生活の世話をすることも。最後の1年はトップチームのコーチだった」

 -日本代表の仕事に関わったきっかけは。

 「リオデジャネイロ五輪代表のサポートスタッフを募集していて応募した。最初はJ3に参戦していたU-22選抜チームのコーチ。各チームから試合前日に選手が集まり、1度だけの練習で試合に臨んでいた」

 -リオ五輪の後も各世代別チームを担当。

 「17年にU-20W杯に出場したU-20代表や森保監督で東京五輪を目指したチームもサポートした。当時のU-20代表には堂安律(どうあんりつ)、板倉滉(いたくらこう)ら現在のA代表の主力がいた」

 -選手としての経歴は。

 「雀宮南小4年の時に『キャプテン翼』に憧れて少年団に入った。最初はFWで徐々にMF、DFと変わり宇都宮高ではDFとボランチ。3年の時に県選抜として山形国体に出場した。全国高校総体県予選は準決勝で宇都宮学園(現文星芸大付)に負けた。宇大は当時県社会人リーグの1部だった」

 -筑波大大学院に進学した理由は。

 「宇大では主将を務め、練習メニューを自分たちで考えていた。なぜうまくいかないのか考えることが多く、サッカーについてより学びたいと思い進学した」

 -もともと分析担当となったきっかけは。

 「筑波大大学院在学時に知り合った松永英機(まつながひでき)さんがV川崎(現東京V)の監督に就任することになり、誘われてスタッフになった。当時の筑波大には監督の資格を取得するための講座があり、院生は補助のスタッフとして参加していた」

 -指導者の道を本格的に考えていた。

 「講座を受けに来ていたJリーグのコーチと一緒になり、チャンスがあるなら指導者を職業にしたいと思った。ただ、選手としても実績がないので、どうすればJクラブに入れるのか模索した。松永さんに相談したら、ちょうど監督に就任するタイミングで運良く誘われた」

 -プロ選手の経歴がなくても代表チームに貢献した経験を踏まえ県民の皆さんにメッセージを。

 「プロでないことがキャリアで不利になることはあったが、だからこそ見えること、やれることがある。V川崎時代に多く負けたことで勝つために努力した。情熱があればそこから湧き出るものがあるし、助けてくれる人がいる。サッカー界を目指す方がいるならそのことは伝えたい」