マニラ会談へ向かう使節団(手前中央が河辺虎四郎中将、その手前右が大竹貞雄少尉)=1945年8月19日、沖縄・伊江島(米海軍歴史・遺産コマンドのアーカイブより)

 戦前の同盟通信記者で陸軍参謀本部に召集された大竹貞雄少尉が、日本占領の打ち合わせをした日米のマニラ会談へ通訳として同行する際、大本営から使節団に配布された日本軍の残存兵力に関する資料が12日までに見つかった。筑波大の波多野澄雄名誉教授(日本外交史)は「一群の資料に特攻兵力だけ抜粋した文書があった。米側がポツダム宣言受諾後も特攻に懸念を持っていた様子がうかがえる」と指摘した。

 マニラ会談に関連して日本軍の残存兵力を示した資料の内容が明らかになるのは初めて。

 資料は「帝国陸軍航空特攻兵力整備計画表」「帝国陸軍航空兵力」など11種類。日付は「8月現在」「8月17~18日現在」とされており、いずれも終戦直後に急いで作成されたものとみられる。

 特攻兵力の文書は「軍事機密」と赤字で刻印。大本営陸軍部の作成で、日本各地、朝鮮、満州、中国、台湾などの地域別に機体数が手書きで記載してあった。合計は「約2450」で、約半数が「赤とんぼ」と通称された練習機だと記されていた。戦局悪化で兵力が枯渇した状況がうかがえる。