栃木県産初のジャパニーズウイスキーが10月下旬、西堀酒造(小山市)日光街道小山蒸溜所から発売される。ブランド名は「哲-TETSU-」。日本酒蔵としてウイスキー事業に参入した思い、その独自性、世界をも見据えた将来展望を3回に分けて追う。
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ウイスキー事業を主導するのは西堀哲也(にしぼり・てつや)専務(35)だ。創業153年の西堀酒造6代目蔵元として2016年、蔵に戻ってきた。その頃を「ウイスキー事業に参入するなんて思ってもみなかった」と振り返る。しかし20年に襲った新型コロナウイルス禍は、飲食店での会食を控えることを感染予防の要としたため、酒類の消費量が激減した。西堀酒造も例外ではなかった。
それまでも国内の日本酒需要は30年以上にわたり減少の一途をたどり、今後の人口減少も見据えると、国内市場に明るい展望を描きづらかった。日本酒の輸出が増加しているといっても、海外での流通は日本料理店などに限られ、世界に出回るワインやウイスキーの流通量に比べると、桁違いに少なかった。
「日本酒以外のカテゴリーを見たとき、フランスのワイン輸出額というのは1兆円以上であることなどを知り、やはり世界酒の舞台で戦うことの重要性に気付き始めた」。その具体策が、世界からの評価が高く、脚光を浴びていたジャパニーズウイスキーだった。コロナ禍の影響を受けた事業者を支援する、国の補助金制度も追い風になった。
17年には古代米を使った独特な味わいの日本酒のクラウドファンディングを活用して商品化、アクリル樹脂を使った透明な日本酒タンクの導入、さらにはこのタンクのもろみに青色と赤色を波長の異なる光を照射した日本酒造りと、次々に新たな試みに挑んだ。それにしても哲也さんのこうしたチャレンジ精神、アグレッシブさ、進取の気性はどこからきているのだろう。

父の和男社長は哲也さんが幼い頃からさまざまな人に「(蔵元)6代目です」と紹介し、いずれ酒蔵を継ぐことを宿命づけていた。地元の小学、中学と野球に打ち込みながらも、高校は都内進学校の巣鴨高に自宅から通った。そして東京大文科三類に合格。「高校は勉強に集中したが、大学では何としても硬式野球をやりたかった」と硬式野球部に入部した。
ただ3年間、野球と離れていただけに身体づくりが急務だった。バットを1日千回素振りしたり、率先してバッティングピッチャーを担ったりしたが、3年生の春、多い時は1日400球近く投げていた時、急に腕が上がらなくなった。腕の腱(けん)がずたずただった。手術したが、野球に戻ることを諦めるしかなかった。
3年生で「答えがないことに魅力を感じた」と文学部哲学科に進み、哲学書を読みあさった。でも就職はIT企業でエンジニアを目指した。「スマートフォンに代表されるようにIT技術が世界、時代を動かしている。それなら飛び込んで体験してみたい」。就職したIT企業の研修は、簡単な資料を渡されただけで誰の手も借りずにプログラムを組むことだった。「最初、パソコンの前に座って(キーボードをたたいても)1ミリも動かなかった。それが6カ月続いた。精神的ストレスが辛かった。修行のようだった」。酒造りで先が見えないときも、体力的、精神的にも限界まで挑んだ過去の体験が原動力になり、独学でウイスキー造りに挑むこともできたという。

そして22年夏からウイスキー造りが始動した。通常の日本酒蔵は10月ごろ~翌年3月ごろの冬場に「寒仕込み」を行い、その他の季節には商品作り、営業活動に当たり、あるいは休暇も消化する。しかし西堀酒造は冬場は日本酒造り、それ以外はウイスキー造りと、年間通して酒造りと営業を行う体系になった。
そんな酒蔵の変化に合わない蔵人は約半分が西堀酒造を離れた。逆にそんな酒蔵のスタイル、ウイスキー造りに魅力を感じた6人が異業種から入ってきた。市役所職員もいれば、石材業や精密機械製造に従事していた人などさまざまだ。

10年ごろ、10カ所程度だった国内のウイスキー蒸留所は海外からも評価が高まっていたことから新規参入が相次ぎ、24年7月には92カ所に増えている。半面、単なる教科書的な新規参入では埋没しかねなかった。歴史、ストーリー、製造方法などブランドの独自性をいかに打ち出し、確立するか問われた。後発でもある日光街道小山蒸溜所はどのようにして独自性を出したのか-。それは日本酒蔵の個性を最大限生かした“真のジャパニーズウイスキー”だった。