勉学に励み、青春を謳歌(おうか)するはずの学生たちは次々に戦地へ向かい、死んでいった。高知県宿毛市出身で、塩谷町上寺島在住の水野允氏(みずののぶうじ)さん(101)は、東京工業大(現・東京科学大)に入学後すぐに動員され、戦車や特攻艇の製造に関わった。自分もいずれ死ぬつもりだった。国に命をささげる覚悟だった。生きて終戦を迎え、80年。命のありがたみを感じる心には「生き残って申し訳ない」という後悔が今なお混じる。
戦況が悪化の一途をたどっていた1943年。水野さんは学習院高等科を卒業し、東工大に進学した。わずか3カ月後、相模陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)(相模原市)に動員され、戦車の部品の電気溶接を任された。質素な食事で、昼夜問わず働かされる日々。「全てはお国のため」。不満はなかった。
敗戦が色濃くなるにつれ、非人道的な兵器も手がけた。44年12月、転勤した横浜海軍監督官事務所で、特攻艇を製造する工場の現場監督補助などに当たった。
特攻艇はベニヤ板製で、長さ約5メートル。120馬力のエンジンを2基搭載し、爆雷と共に軍艦に突っ込むと説明された。疑問は湧かなかった。「お前が乗れと言われたらもちろん乗る。ずっとお国のために死ぬつもりだった。みんなそう思っていた」
横須賀軍港に特攻艇を納めに行った際には、空襲で近くの軍艦に爆弾が落ち、爆風にあおられた。東京大空襲の焼け野原も目の当たりにし、隅田川を埋め尽くすほどの死体を見た。
捏造(ねつぞう)された戦果が発表される中、日本の勝利を信じて疑わなかった日々の終わりは突然訪れた。8月15日、都内の自宅で敗戦を伝える玉音放送を聞いた。
翌日、事務所に行くと「学校へ帰れ」と命令され、学徒たちと軍歌を泣きながら歌った。国や天皇のために尽くしたことがひっくり返り「魂が抜かれた」。「大本営発表を信じ、いざとなれば神風が吹くと本気で思っていた。時代に巻き込まれるってこういうことなんですよね」。
学習院時代の友人や同年代の若者が次々と命を落とした。時代が狂っていたと今、分かってはいても「生き残ってしまった」負い目は消えない。
埼玉県の高齢者向け住宅に住んでいたが、コロナ禍で家族と会えなくなり、4年前、長男・雅章(まさあき)さん(75)が住む塩谷町に移った。孫、ひ孫計7人にも恵まれ、100歳を超えて平和な日々を過ごせる今に感謝する。拭えない悔いと命の大切さをかみしめる8月。「生きているっていうのはありがたいことですね」
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