空襲犠牲者の名簿を納めた「戦災の碑」の前で「今日の平和に至るまでの苦難を知ってほしい」と訴える新居田大作さん=4月11日、今治市別宮町3丁目(撮影・今西晋)

終戦後に撮影された今治市中心部の焼け跡(新居田大作さん提供)

空襲犠牲者の名簿を納めた「戦災の碑」の前で「今日の平和に至るまでの苦難を知ってほしい」と訴える新居田大作さん=4月11日、今治市別宮町3丁目(撮影・今西晋) 終戦後に撮影された今治市中心部の焼け跡(新居田大作さん提供)

 1945年4月26日夕方。小学4年生だった新居田大作(にいだだいさく)さん(90)=愛媛県今治市=は地響きと爆発音を聞き、驚いて自宅を飛び出した。300メートル余り先の家から、真っ赤な火柱が立ち上っていた。市内が米軍の大型爆撃機B29の初空襲を受けたのは同日朝。避難した市民も家に戻っていた。

 爆発で犠牲者は出なかったが、約9時間後に突然襲ってきた時限爆弾の恐怖。「戦後調べたら、米軍は今治に飛行場があると誤認していたらしい。滑走路を使いにくくするよう、通常爆弾に時限爆弾を交ぜて投下した。市民は米軍の意図は分からんから、自分が狙われたと思いますよ」