今回は「那須の神様」「那須の小天狗(てんぐ)」の異名をとった名プレーヤー小針春芳(こばりはるよし)プロ(1921~2019)に触れてみたい。

2010年に14回掲載した本紙連載「私の生きた刻(とき)」の取材で、那須塩原市の自宅に30回ほどお邪魔させていただいた。これまであまたの人を取材してきたが、いわゆるオーラを感じたのはただ1人。小針プロと初めて対面した時だけだ。

1940年に県内プロ第1号となった。55年、当時のメジャー大会、関東プロ(マッチプレー)で中村寅吉(なかむらとらきち)を破り初勝利。日本オープン2勝、関東オープン2勝などツアー6勝、シニアツアー9勝を飾った。2012年3月、第1回の日本プロゴルフ殿堂入りした7人の中の1人だ。
多くの貴重な話を聞かせていただいた。振り返ってみれば、かけがえのない時間だった。“神様”は自らを称するのに「私」「俺」は使わなかった。「わし」だった。
戦時下、プロゴルファーといっても「憲兵はもちろん、一般国民も誰も分かってくれない」。ゴルフクラブは「見つかれば没収もある」と風呂敷に包み、汽車で移動した。徴兵され、ニューギニアで終戦を迎えた。400人の部隊で生き残ったのはわずか13人。サンゴ礁の硬い海岸を掘って戦友を埋葬したつらい経験を持つ。過酷な戦場を振り返り「戦闘で戦死するのは少なく、ほとんど病死だった」と明かした。
マラリアに感染し、戦後も症状が出て苦しんだ。ボール番号は「4(死)」線を越える「5」しか使用しなかった。「つらい戦争、生活もどん底を経験している。『死闘』なんて表現されるが、ゴルフで耐えるなんて大したことない。ミスしたって殺されることはない」と話してくれたことが印象深い。
白シャツに紺のスラックス、白色の帽子がいつものスタイル。派手な世界の中で、地味なプロだった。トッププロは有名ゴルフ場に手厚い待遇で転籍するのが当たり前だった時代、一貫して那須GCから離れなかった。そこで名付けられたのが「那須の神様」だ。
「恵まれた練習環境を与えてもらった那須GCは、親と同じ。3倍以上の条件を提示してきたところもあったが断った」と感謝を強調していた。クラブ所属プロとして高い評価を得て、那須GCから名誉会員に推薦された。東京GCの安田幸吉(やすだこうきち)に次いで2人目だった。

プロとして悔しい経験もした。ライバルだった陳清波(ちんせいは)、大親友の小野光一(おのこういち)などが出場したマスターズ。招待状は届かなかった。「出たかった」と本音を漏らしたこともあった。
美空(みそら)ひばり、長嶋茂雄(ながしましげお)、石原裕次郎(いしはらゆうじろう)と並んで戦後の四大有名人に挙げられるプロレスラー力道山(りきどうざん)らにレッスンしたことも。「グリップが太くて驚いた。どこで売っているのか不思議だった」という。400勝投手の金田正一(かねだまさいち)にも。
愛煙家でもあった。「ピース」の箱を印刷している方とラウンドしたことを懐かしそうに語っていた。「あの藍色を出すのは難しい」と話していたのが印象的だったという。
私事になるが、ある時、タカ坊宛てに著名なゴルフライターから電話をもらった。小針プロ宅を取材で訪れた際に「ここに全てが書いてある」と、連載「私の生きた刻」のスクラップを手渡されたという。“神様”に認められたということか。新聞記者冥利(みょうり)に尽きる。