家族でよく遊びに来る公園で沖縄戦について語り合う大城静子さん(左)と孫の侑生さん。晴れている時は海の向こうに渡嘉敷島が見えるという=3月13日、沖縄県糸満市・南浜公園(竹花徹朗撮影)

「集団自決」を生き抜いた(左から)大城静子さんと妹の喜久村清子さん。沖縄戦で亡くなった家族が刻銘された「平和の礎」に手を合わせた=2024年6月23日、沖縄県糸満市摩文仁

家族でよく遊びに来る公園で沖縄戦について語り合う大城静子さん(左)と孫の侑生さん。晴れている時は海の向こうに渡嘉敷島が見えるという=3月13日、沖縄県糸満市・南浜公園(竹花徹朗撮影) 「集団自決」を生き抜いた(左から)大城静子さんと妹の喜久村清子さん。沖縄戦で亡くなった家族が刻銘された「平和の礎」に手を合わせた=2024年6月23日、沖縄県糸満市摩文仁

 「触ってごらん。たたかれたから首の付け根がへこんでいるさ」。促されるまま首の後ろに触れると、わずかにくぼんでいた。

 体だけではない。80年前の惨劇は心もえぐり、忘れたくても忘れられない。11歳だった大城静子(おおしろしずこ)さん(91)=沖縄県糸満市=は、沖縄島の西に広がる慶良間(けらま)諸島の一つ、渡嘉敷(とかしき)島で起きた住民の「集団自決(強制集団死)」を生き延びた。

 沖縄戦を前に、慶良間の島々で海上特攻の秘密基地を築いた日本軍。住民に対し「米軍の捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は強姦(ごうかん)される」とすり込んだ上で手りゅう弾を渡し、敵に投降するより死を選ぶよう追い込んだ。