奨励賞 「バトンタッチ」 星野天音さん(東京)
「お母さん、子どもができたみたい。産まれるのは来年のはじめ頃かな」
夏休みの終わりが近づいた九月初めのことだった。大学のある東京まで爽太を運んでくれるバスは、もうすぐ出発する。次に実家に帰るのは、年末年始だねと話していたときのことだった。急すぎる母の告白に爽太の思考は完全に停止した。バスのターミナルでトランクを持ったまま一歩も動けずにいた。発車のアナウンスが鳴り響き、母の言葉に急かされるようにしてバスに乗り込んだ。
爽太は今年で二十歳を迎える。東京での一人暮らしの開放感と寂しさに慣れてきたところだ。母の妊娠という衝撃の秘密を抱え、大学生活に戻るしかなかった。友人の誰にも相談できない。それでも週に一回は写真付きで両親からメッセージが送られてくる。その写真を見ると、母の腹部の辺りをクローズアップしてしまう癖がついた。たった七日前と比べても、母のお腹は毎週のように膨らんでいった。十月に入ると性別が判明し、弟ができると報告された。
両親は十八歳のときに爽太を産んだ。周りの親より若いのは、幼稚園のときから気づいていた。でもそれが爽太にとっては誇らしいことだった。父は長距離トラックの運転手をしている。三日四日家に戻らないことはざらにあり、母と爽太の絆は強いものになった。ひとりっ子だったのもあり、爽太は母からの愛情を独り占めしてきた。爽太にとって母は、父でもあり、姉でもあり、恋人のようでもあった。だから、高校生になり反抗期を迎えると矛先は常に母に向いた。受験校を選ぶとき、実家から通えない地域の大学ばかりに出願した。東京まではバスで一時間半かかる。爽太は丁度(ちょうど)いい距離だと思った。
十二月二十四日、東京で雪が降った。爽太が帰省しようとしていた矢先のことだった。降雪のせいでバスが運行停止になってしまった。予定の変更を伝えようと母に電話をかける。わかったー、と気の抜けた返事をする母の声の後ろに、一定のリズムを刻む機械音が聞こえている。爽太は母の声色にも少し違和感を覚えた。なにも言わない母を問いただすと、昨日から入院していると白状した。居ても立っても居られず、爽太は急いで駅に向かった。
昼過ぎの宇都宮線の混雑はひどかった。クリスマスイブのせいか、爽太の目には自分以外の全員が浮足立っているように映った。雪道を転がしたトランクの車輪が他人の足を轢(ひ)いても、爽太には謝っている余裕はない。電車内では約二時間立ちっぱなしだった。乗降の際の人流に揉(も)まれながら、一秒でも早く着くことを願っていた。
母に聞いた病院の最寄り駅からタクシーを使い、雪の降る中を急いだ。東京よりも風が強く、フロントガラスに雪の結晶が叩きつけられている。爽太が焦れば焦るほど、赤信号に引っかかる回数が増えていく。タクシーを飛び降りて走り出したい気持ちが、爽太の右足を揺り動かす。
病院の正面玄関に着き、タッチ決済で支払いを済ませる。お釣りのやり取(と)りをしている暇はなかった。爽太は開ききる前の自動ドアに滑り込んで、目の前にいる看護師に産婦人科の場所を尋ねた。
「急いで付いてきてください」
母と同年代くらいの看護師はぶっきらぼうに言い放った。爽太はトランクを引きずりながら、速足で彼女の後ろを付いていく。彼女の表情はよく見えないが、緊張感と憤りに満ちた雰囲気は伝わってきた。産婦人科に着くと、分娩(ぶんべん)室と書かれたプレートのある部屋に通された。まさか、もう陣痛が始まったのか、と爽太は走ってカーテンの奥にある分娩台へ駆け寄った。そこに横たわっていたのは見知らぬ若い女性だった。
「えっ、誰?」
二人の目が合った瞬間、爽太と妊婦さんの声がかぶった。
急いで爽太が自分の状況を説明する。要領を得ない説明だったが、母の名前を出すと向こうのスタッフに伝わったようで分娩室から出された。廊下で母の部屋番号を確認していると、さっきの女性の叫び声が聞こえてきた。地鳴りのような声だと爽太は思った。女子の悲鳴なんてものじゃない。懸命に踏ん張っている人のエネルギーに満ちた声だ。ドアの外側で祈ることしか爽太にはできない。母の病室に入るまで、無事に産まれてくれ、と何度も心の中で唱えた。
三〇五号室は四人部屋だった。右側の窓際のベッドに母が寝ている。入口に立っている爽太に気が付くと、笑顔で大きく腕を振ってきた。お腹が大きく膨らんでいる以外、記憶の中の母のままだった。ベッドのそばの丸椅子に座り、容態(ようだい)を聞いた。母が心配をかけまいとして嘘(うそ)をつく性格なのは百も承知だ。あとで担当の先生に聞こうと思いながら、母の声に耳を傾ける。母の年齢だと高齢出産に当たるらしい。初産は二十年前であり、身体も子宮も当時よりも衰えている。大事をとって予定日間近から入院しているそうだ。
「それがね、予定日が一週間後の大晦日(みそか)なのよ」
そう言った母の顔は優しさに満ちていた。覚えやすく忘れられにくい誕生日になると嬉(うれ)しそうに伝えてくれた。
「もう、めちゃくちゃ心配したんだぞ」
爽太は慌てて飛び出してきたことを褒めてほしかった。話題の中心を弟に取られることに、まだ納得がいっていない。爽太はひとりっ子が長いため、親が他の子の話をしていると胸がざわつく。産まれていない弟に嫉妬していることが少し恥ずかしい。
花瓶の水を替えようと廊下に出ると、看護師が近づいてくる。よく顔を見ると、病院の正面玄関から産婦人科に案内してくれた人だ。
「さっきは申し訳ありませんでした。すごく慌ててらっしゃったので、てっきり出産間近の妊婦さんのご主人かと」
彼女は爽太に何度も頭を下げた。マニュアルからすると、彼女の行動はミスだったのかも知れない。しかし爽太にとって初めて出産を身近に感じた場面だった。母はあれほどの苦痛を再び経験しようとしている。父が仕事から戻るまで、母を支える決心がついた。
「本当に大丈夫です。こちらこそありがとうございます」
爽太は、目の前の看護師よりも深く、一度だけお辞儀をした。
病室に戻ると、母が爽太を見て笑っている。
「父親に間違われたんだって」
入院患者の情報の伝達スピードは驚くほど速い。そして母は、社交的な性格ですぐに友人を作ってしまう人だ。きっともう今日の産婦人科の一大ニュースを仕入れたに違いない。目を細めて、片方の口角だけを綺麗(きれい)に上げながら爽太に確かめてきた。
「俺ってそんなに老けてる?」
爽太の同級生に子どもがいる者はいない。爽太自身も子どもを持つということを真剣に考えたことはまだない。
「普通よ。あんたが老けてるんじゃなくて、ハタチで親になる人もいれば、四十こえて親になる人もいる。私みたいに両方を経験する人もいる。私から見ればあんたはまだまだ子どもだけど、傍から見れば立派な大人に見えたのよ」
笑顔が消え、真剣な表情になって母は言った。目はまっすぐ爽太を見つめている。この瞬間は、親子二人だけの空間だと爽太は感じた。けれど同時に母とたった一人の息子という関係は終わりを迎えるのだと悟った。
「隣の妊婦さんだったのよ。今分娩室にいるのはね。付き合ってた男に逃げられて、一人で母親になろうとしてるの。そんなときにあんたが病院に来たもんだから、男の話を知ってた看護師さんが早とちりしたみたいね」
母親は身体の中にもう一つの命を授かる。はじめから母親なのだ。男は妊娠も出産もできない。彼らはいつから父親と呼べるのだろう。身体や精神面、金銭面など途方もない自己犠牲をともなってはじめて、親になれるのかもしれない。
「俺さ、自分が父親になるのはまだわかんないけど、弟のために頑張るから。父ちゃんがいないときは俺に頼ってよ」
爽太は決めた。両親から受け取った愛情を弟にも分け与えようと。
それから爽太は毎日のように、お見舞いへ行った。一週間が経(た)ち、ついに予定日の三十一日を迎えた。午後三時ごろ陣痛が始まった。予定日通りだったが、父はこの冬最大の雪の影響でまだ県内にも入れていない。この病院の決まりで分娩室に入れる男は、父親だけだ。きっと母は一人で出産することになる。夜八時に子宮口が全開になったが、まだ父親は来ない。もう爽太にできることはない。テニスボールと母の飲みかけのペットボトル、さっきまで汗を拭いていたタオルを握り締めながら、分娩室前のベンチに座り込む。ひたすらに無事を祈ることしかできない。時間感覚がなくなってきたころ、除夜の鐘が鳴り響いた。いつの間にか新年を迎えている。ふと顔を上げると、首が痛んだ。ずっと同じ姿勢でいたせいか、身体が凝り固まっている。爽太が立ち上がって伸びをした瞬間だった。さっきの除夜の鐘よりも大きな産声が分娩室の中から聞こえた。関節の痛みよりも激流のような喜びが爽太を襲ってきた。思わず床に膝をつく。口元に手を当てて、涙で嗚咽(おえつ)しそうになるのを堪える。
爽太は自分がどれほど弟の誕生を喜ぼうとも、まだ兄にはなれていないことを自覚した。まだ足りない。時間やつながりを通じてやっと兄弟になれるのだ。今年の春休みは、弟のために使おうと決めた。