1965年ごろの千本小と須藤中の合同運動会。現在4校の小学校は最大で18校あった(ふみの森もてぎ提供)

1965年ごろの千本小と須藤中の合同運動会。現在4校の小学校は最大で18校あった(ふみの森もてぎ提供)

 1889(明治22)年4月1日に全国一斉に行われた町村合併で39の町と村が茂木町、逆川村、中川村、須藤村の4町村に合併した。当時の人口は1万6251人。4町村は1954(昭和29)年の昭和の大合併まで存続した。

 この間、終戦直後の1947(昭和22)年に最大の人口3万1637人を記録して以降現在に至るまで人口は減り続け、今年6月1日には1万1201人にまで減少している。

 茂木は明治から大正にかけてたばこ産業が絶頂期を迎え、日本有数のたばこの生産地となった。1910(明治43)年の統計には、たばこ製造関連の工場が旧茂木町だけで七つ、工員数2047人とある。

 戦後もその伝統は引き継がれたが、約450人が働いていた日本専売公社茂木工場は77年に閉鎖された。

 高度成長期には、東京などへの転出が著しかった。55年から70年までの15年間に7千人も減少した。

 その後80年から30年間では5千人減と緩やかだったが、2010年から20年までの10年間には3300人減と減少率が再び拡大した。子育て世代の減少で少子化が加速している。

 ふみの森もてぎの歴史資料専門員小森紀男(こもりのりお)さんは「まだ今は高齢者が頑張っているが、今後は心配」と話した。