「子どもたちがいるから指導ができる。今ある『当たり前』に感謝したい」と話す国学栃木高バレーボール部の曳地監督=同校体育館

栃木SCのMF荒井は仙台市内で被災。「絶対に忘れてはいけない経験」と当時を振り返る=宇都宮市内

「子どもたちがいるから指導ができる。今ある『当たり前』に感謝したい」と話す国学栃木高バレーボール部の曳地監督=同校体育館 栃木SCのMF荒井は仙台市内で被災。「絶対に忘れてはいけない経験」と当時を振り返る=宇都宮市内

 死者・行方不明者が1万8千人を超えた東日本大震災の発生から11日で丸9年。多くの命が奪われた東北地方で震災に見舞われながらも、今を懸命に生きる本県スポーツ関係者がいる。本県に活動の場を移した2人は当時の思いを胸に、競技に向き合っている。

■国学栃木高バレー部・曳地監督 福島で指導 後悔今も

 「津波も原発被害も受けなかった自分は被災者じゃない。たまたま被災地に住んでいただけ」。国学栃木高バレーボール部の曳地俊一(ひきちしゅんいち)監督(47)はそう言い切るが、教え子を亡くした痛みは今も消えない。

 震災発生当時、福島県相馬市内の県立相馬東高の女子バレーボール部監督を務めていた。太平洋に面した潟湖(せきこ)・松川浦の近くに自費で自宅兼部員寮を建てる熱血漢。同部を県内強豪へ育て上げ、全国大会へ4度導いた。

 2011年3月11日午後は自宅にいた。高校入試判定会議のため部活は休み。寮生も帰省していた。「ドカンと突き上げられた」。震度6弱の揺れに死も覚悟した。学校へ急行し、同僚と生徒を屋上へ避難させた。3キロ先に見える真っ黒な波が見慣れた町をのみ込んでいく。9メートル以上の大津波。惨劇に言葉を失った。

 同市内の死者は458人。うち6人が同校の生徒だった。部員は幸い無事だった。海に近い寮も間一髪、被害を免れた。だが新入部員の姉や、教え子の河西美沙(かわにしみさ)さん=当時(21)=が津波にのまれて命を落とした。

 苦楽をともにして全国大会を経験したサウスポー。河西さんは卒業後、県外の9人制チームでプレーする話もあったが、地元での就職を選んだ。「進路選択の時、自分が強く推していたら…。申し訳ない」。後悔が今も胸を締め付ける。

 指導の新天地を求め、16年に国学栃木高へ赴任し、昨年1月から指揮を執る。同10月の台風19号による災害。休校措置で練習ができなかったが、「当たり前を奪われた経験があったから平静だった」。一方、栃木市片柳町2丁目の自宅で自家用車は水没。「海がないからと緩んでいた」。防災意識の薄れも痛感した。

 毎年3月11日は教え子の墓前で手を合わせる。「最初の1年は長かった。でももう9年。あの日を風化させちゃいけない」。トスのように、経験を未来へつなぐ。その思いは変わらない。

 [写真説明]「子どもたちがいるから指導ができる。今ある『当たり前』に感謝したい」と話す国学栃木高バレーボール部の曳地監督=同校体育館、柴田大輔撮影

■栃木SC3年目・MF荒井 仙台での日々を胸に

 地震や津波による甚大な被害、知人の死、先の見えない生活…。「絶対に忘れてはいけないこと」。サッカーJ2栃木SCのMF荒井秀賀(あらいしゅうが)(20)は、仙台市で目の当たりにした東日本大震災の経験を心に刻み込む。

 山形県出身で2010年、父の厚志(あつし)さん(51)=現栃木SC主務=がJ1仙台の主務に就任したことから転居した。震災発生時は小学5年生。仙台の下部組織に所属し、サッカーに打ち込んでいた。

 自宅に大きな被害はなかったが、近所で仲の良かったチームメートは津波で母親を失った。「みんな泣いていた。家が流された知人も居て、話を聞くだけでつらかった」。練習拠点は地面が波打つように湾曲。サッカーに打ち込む環境は失われ、クラブに寄せられた支援物資の仕分けを手伝うなど、自分にできることに必死で取り組んだ。

 悲しみの中、励みとなったのはトップチームの存在だった。仙台は11年に4位、12年には2位と過去最高順位を立て続けに更新する快進撃。選手は「希望の光になろう」を合言葉に被災者に勇気を与え続けた。それをボールボーイなどでピッチサイドから目にし続け、強く心に誓った。「絶対に俺もプロになろう」

 高校まで所属した下部組織からトップ昇格は果たせなかった。だが、早くから声を掛けてくれた栃木SCへ18年に加入、昨季は念願のリーグ戦初出場も果たした。期待の若手はムードメーカーとしても、今やチームに欠かせない存在だ。

 今季プロ3年目。「被災地への思い、支援してくれた人への感謝。それがサッカーへの意欲につながっている」。仙台で過ごした日々が背番号32のバックボーンにある。