7区で11人抜きを達成し、トップに立った福田。区間賞で日光市の6連覇に貢献した=1965年の第6回大会から

福田光伸さん

7区で11人抜きを達成し、トップに立った福田。区間賞で日光市の6連覇に貢献した=1965年の第6回大会から 福田光伸さん

 日光市は第1回大会から5連覇し、第6回大会も優勝候補でした。社会人区間を固めたのは、当時全日本実業団駅伝で上位に入ることもあった古河電工陸上部の選手。私もその一員だったので、往路も復路も負けられないという意識でした。

 当時のコースは県庁から日光公会堂までの往復。往路優勝で3分近く貯金がありましたが、復路最初の5区が区間最下位の大ブレーキ。先頭と6分差をつけられ、総合成績でも逆転されました。担当した7区は今市の大沢から宇都宮の富屋までの緩やかな下りの10キロ。私は12番目にたすきを受け取り、トップとの4分差を追い掛けました。

 前のランナーすら見えなかったので、遅れを取り戻そうと無我夢中でした。1人抜くたびに走りにリズムが出て、苦しさも半分になるような感覚でした。残り2キロで100メートル先にトップが見え、中継所まで残り50メートルで逆転。自分の役割を果たせて「これで優勝できる」とホッとしましたね。

 当時はコーチや監督はおらず、県内外の強豪ランナーに合同練習を申し入れ、その選手のいい点を吸収して自分のフォームを固めました。電信柱の間隔40メートルを活用し、400メートル70秒のペースを体にたたき込んだことも。自分で考えながら練習したことで、無理して故障することもなく選手としても自立できました。

 郡市町駅伝に第1回から第17回まで出場し、区間賞を13回いただけたことは私の誇り。また東日本縦断駅伝で単独最多の区間賞を獲得した際、NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公で箱根駅伝を創設した金栗四三(かなくりしそう)先生に「体力 気力 努力」と書いていただいた色紙と一緒に撮った写真は、今でも大切な宝物です。

 長距離に挑む選手にとって、駅伝は登竜門だと思います。栃木から、この郡市町駅伝の代表選手から、長距離で再び五輪選手が出てきてくれることを願っています。

 ふくだ・みつのぶ 1939年日光市生まれ。日光高から別倉製材、古河電工と進み、郡市町対抗駅伝には第1回から出場し、日光市の7連覇に貢献。2003年にはボストンマラソンのシニア部門(60~69歳)で優勝した。宇都宮市在住。