糖分をアルコールに分解し、日本酒の香り、味わいを決めるのに大きな役割を果たす清酒酵母。1993年までに誕生した「栃木県産酵母」は、他県に負けないおいしい日本酒、栃木県でしか醸せない個性ある日本酒を造るのに欠かせない。その開発には県内の酒造蔵内に棲みつく「蔵付き酵母」を採取し、酒造りを試して選抜を繰り返すという、気の遠くなる開発作業と県酒造業界の悲願があった。

県内の酒造会社から頼まれた培養酵母を確かめる岡本主任研究員=県産業技術センター
県内の酒造会社から頼まれた培養酵母を確かめる岡本主任研究員=県産業技術センター

 開発を担当したのは、県産業技術センターの元食品技術部長で主任研究員の岡本竹己(おかもとたけみ)さん(63)だ。東京農工大で食品加工工場から出る廃水中の有機物を分解する環境微生物を研究したという岡本さんは85年、農芸化学職として県職員に採用され、県食品工業指導所(現県産業技術センター)酒類部に配属された。「お酒に関わるなんて思ってもみなかった」という。酒類部は岡本さん含め3人。先輩と部長は20歳以上離れていた。

 当時、県内の酒蔵の日本酒造りは、稲作が終え、寒造りの仕込み時期だけ出稼ぎに来る、酒どころの新潟県の越後杜氏(とうじ)、岩手県の南部杜氏といった季節杜氏に頼っていた。岡本さんが酒蔵を巡ると、杜氏から「(酒類総合研究所等主催の)全国新酒鑑評会で金賞を取れる酵母がほしい」と声が寄せられた。これら季節杜氏は金賞を取り、故郷に戻ると杜氏仲間から賛辞が贈られ、一目置かれたという。蔵元からも同じことを求められた。明治44(1911)年から続く同鑑評会での金賞受賞はいわば優秀な日本酒を造る蔵として“公的なお墨付き”をもらうのと同等の意味があり、その蔵全体の日本酒売り上げに直結した時代でもあったためだ。

 2024酒造年度の同鑑評会は、約1500ある全国の酒蔵から809点が出品され、202点が金賞を受賞した。だが、1987年当時、約2500あった全国の酒蔵のうち金賞受賞数は119点。現在とは比べものならないほど金賞受賞は至難の業だった。栃木県内の金賞受賞は今でこそ9、10点という全国でも屈指の受賞数になっているが、87年はゼロ、関東信越国税局全体でも7点に止まり、「氷河期」といわれた。

 当時、全国の多くの酒蔵で使われていた酵母は、日本醸造協会が頒布する「きょうかい酵母」か、醸造メーカーの明利酒類(水戸市)が開発した酵母だった。その中で静岡県は金賞受賞数が86年、10に上り、躍進が突出して際立ち、注目を集めた。躍進の要因に挙げられたのが静岡県が独自に開発した「静岡酵母」の存在だった。栃木県の杜氏や蔵元が自県産のオリジナル酵母を求める理由もそこにあった。

酵母の研究に励む岡本技師=1990年、県食品工業指導所
酵母の研究に励む岡本技師=1990年、県食品工業指導所

 栃木県産酵母の開発は、配属されたばかりの岡本さんが担当した。岡本さんは清酒酵母を知るため、出身大の恩師に相談。そのつてで当時、東京の国立醸造試験所(酒類総合研究所の前身)で行われていた研究会に参加することができた。そこには第一線の研究者、酒造会社研究員が集まっており、最新の情報・動向を知ることができ、人脈ができたという。

 同時に県内の約40酒蔵を巡り、「蔵付き酵母」の採取を始めた。酒母室にトラップを仕掛けたり、仕込み蔵の木桶や道具、清掃が行き届きにくい箇所を拭き取ったり、土蔵壁の土を取るなど菌を採取しては培養した。これら採取したサンプル数は2千~3千に上った。このうち雑菌はシャーレでの増え方(コロニーの形)が酵母と明らかに違うため、その段階で酵母だけ仕分けられた。だが酵母の選抜は試験管レベルから100リットル容器での小仕込みまで酒の仕込みを行って1カ月以上発酵させ、香味を確かめるしかなかった。

 開発に取り組んで約5年が過ぎ、有望な酵母を24にまで絞り込んだ。でも通常の酒造りで本当にその香味が出るかは、実際の容量数キロリットルといった醸造タンクで発酵させる実地醸造をしないと分からなかった。当時、県内の杜氏が集まる県杜氏研修会を通し、実地醸造の協力を得て、多くの酒蔵で県産酵母開発の取り組みが進められた。

 「当時はまだ普通酒をたくさん造っていた時代で、仮に試験醸造で思うような香味が出なくても他の多くの酒と混ぜることで何とか対応しますと言ってくれた」。今では特定名称酒しか造らない酒蔵が増えており、当時だからこそ協力を仰げたというくらい、酒造業界で新たな酵母を開発するということは、リスクとの背中合わせだということが分かる。

 これらの試験的な取り組みを重ね、24種を約4分の1に、最終的に4種に絞り込んだ段階で91年、県内の酒蔵のいくつかはこれら酵母で醸した吟醸酒を全国新酒鑑評会に出品した。結果は2蔵が金賞を受賞した。一つの蔵は本命視していた酵母、もう一つの蔵は別の酵母だった。別の酵母で出品した蔵の中には金賞を受賞できなかったことから、その後も検討を重ね、約2年後の93年までに金賞受賞実績のある「T-デルタ」「T-1」など4種が栃木県産オリジナル酵母として出そろった。

栃木県産の主な清酒酵母とその特徴
栃木県産の主な清酒酵母とその特徴

 T-デルタは香気成分で重要な、バナナやメロンのような華やかな吟醸香の酢酸イソアミルを生成。T-1は同じく重要な香気成分で、リンゴや洋ナシのような濃厚な吟醸香を醸すカプロン酸エチルを生成する特徴があった。

 県産酵母が普及する頃には、同鑑評会での本県金賞受賞数が7、8蔵にまで増え、関東地方ではトップに躍り出ていた。2010年と22年には県産酵母と県産酒米で醸した井上清吉商店(宇都宮市)の「澤姫」が世界最大級の日本酒コンテスト「インターナショナル・ワイン・チャレンジ(IWC)サケ部門」で世界一称号「チャンピオン」に輝いた。同社の井上裕史(いのうえひろし)社長は「県産酵母という武器があったおかげ」と振り返った。

インターナショナル・ワイン・チャレンジのサケ部門で世界一称号の「チャンピオン」盾を突き上げる井上社長=2010年9月、ロンドン
インターナショナル・ワイン・チャレンジのサケ部門で世界一称号の「チャンピオン」盾を突き上げる井上社長=2010年9月、ロンドン

 岡本さんは「鑑評会での金賞や世界一を受賞するには酒米由来の影響、各蔵の醸造技術があり、酵母だけ(の力)ではないが、県産酵母開発の成果が出せてうれしかった」と30年以上前の取り組みを懐かしむ。

 県産業技術センターはその後、酵母という微生物は変化しやすいため、「県産清酒酵母」の特性をしっかり継承する「継代培養」に取り組むほか、変わった酵母や派生酵母が出てくれば、酒造りに生かせるかを絶えずチェックしている。そして06年に創設された「下野杜氏制度」など人材育成に力を入れる。

県産清酒酵母の開発秘話を語る岡本主任研究員=県産業技術センター
県産清酒酵母の開発秘話を語る岡本主任研究員=県産業技術センター

 岡本さんは「『(酒造りに)ゴールはない』。私から見ると名杜氏だと思えるような方でも、自分が本当に100%満足できるお酒はやっぱり引退する時にも造れなかったと言っていましたからね」と酒造りの奥深さを語る。県産酵母の開発に尽くした岡本さんにとってこの言葉は「限りなくおいしく、魅力ある日本酒を造るため、本県酒造業界への支援にゴールはない」と置き換えられるのだろう。

(伊藤一之)