イッセー尾形

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 イッセー尾形

場面写真

場面写真2話

 イッセー尾形  イッセー尾形  イッセー尾形  イッセー尾形 場面写真 場面写真2話

 「一人芝居」の第一人者で、数多くの映像作品でも活躍する俳優イッセー尾形が、2026年1月4日にスタートするNHKBSの時代劇「浮浪雲」(日曜夜、全8話)に出演する。演じるのは、幕末の問屋場「夢屋」の番頭・欲次郎。夢屋の主人で、ふらふらと遊んでばかりなのに、不思議と誰からも好かれる雲(佐々木蔵之介)や、雲のしっかりものの妻(倉科カナ)らを陰で支える役どころだ。

 「かつら」を着けられるから好きだという時代劇の魅力から、「プロフェッショナルな共演者の隙間で遊んだ」という撮影、一人芝居と共演者との芝居の違いまで。第一線を走り続けるイッセーに、作品や演技との向き合い方を聞いた。(取材・文 共同通信=木村直登)

▽キャラクターは現場調整

(演じる欲次郎はどんな役ですか)

 手探りでした。共演者の六平直政さんが撮影の時、変なもみあげを付けていたんですよ。それを見て、こんなことしていいのかと思って。すぐにメークさんに眉毛を太くしてくださいってお願いしました。

(それは「面白くしたい」という思いだったのでしょうか)

 (共演)相手と瞬間瞬間で、どう受け取って、どう返してというキャッチボール自体が「面白さ」なんですよね。キャッチボールというのは、意味のやりとりだけじゃなくて、皮膚の動きとか、眉の開き方とかもある。そういうものを全部含めて相手とのラリーが続けばいいなと思っています。

(眉毛を太くするというのは、それによって引き出される相手の反応を期待していると)

 そうそう。眉毛が太い方が細いよりもあっけらかんとして見える。相手を誘い込みやすいし、お互いに心を開きやすい気がしたんです。

 キャラクターって、あらかじめ決める部分もありますが、ほとんどは現場調整。流動的な方が、人間っぽいと言うのかな。今はそう思っていますね。

 キャラクターを「こう作りました」とやってしまうと、もう相手がいらないでしょ。「こうなんですが、どうですか」みたいなやりとりがある方が面白いんですよ、スリリングで。

(一方で、役柄として守らないといけないラインもあると思います)

 台本がありますから、事前に決めておく部分の目安にはなりますよね。でも最終判断はその場。「浮浪雲」では、自由きままな雲と常識人の欲次郎がいますが、それはあくまでもスタート。そこが終着点じゃないんですよ。現場でどう変わっていくか、それを楽しみます。

(アドリブでせりふも変わってくるのですか)

 あんまりせりふは変えないようにしてます。アドリブなのは「ニュアンス」の部分ですね。

▽時代劇は「かつら」

(キャストが発表された際、「ちょんまげを乗せればリアリティーとはサヨナラできる」とコメントされていました)

 ちょんまげを乗せると、恥ずかしいことでも、何でも言えちゃうような気がして。「この世の中、間違っとる」とか「君を愛している」とか。

 ところが、かつらを外すと、リアリティーを持ってこないといけない気がして。「この国は間違っとる」という政治家的な発言をするための根拠みたいなものをしっかり持たないと、そのせりふは言えないと思っちゃうんです。

 そういう意味で、ちょんまげが僕は大好きですね。

(かつらをかぶると説得力が出るということなんでしょうか)

 説得力というか、自分をだませる。無責任にさせてくれるもの。せりふを聞いた人も心を開いてくれる。お互いに「無責任(な態度)」を介在して対話できる。だから、僕にとって時代劇は、かつらなんです。

▽リハーサルと同じことはしない

(今作の撮影について、共演者の「隙間で遊ぶ」と表現されていました)

 先ほどのキャッチボールの話と似たことなんですけど。こうも取れるし、ああも取れるという意味合い(の幅)がある中で、どこを選びとるか。選んだものを相手に投げかけると、相手は「そうですかぁ?」という(不服そうな)顔で受け取ることもできるし、「はあ、なるほど!」という雰囲気で受け取ることもできる。どの顔でいこうか、どの表情で投げかけようか、というのは「遊んでいる」うちに入るのかな。

(ドラマの撮影にはリハーサルもあります)

 本番ではリハーサルとは違うことをやります。リハーサルをやると(新しいことを)思いつくでしょう。同じことをやっていると、繰り返しで、記憶になっちゃう。ちっとも新鮮さが無いでしょ。

(リハーサル通りにやりたい俳優もいるのでは)

 いらっしゃいますし、ほとんどそうだと思います。でも、もういいかと。73歳なんだから、もう気楽でいいか、という所はあります。

(年齢を重ねて「遊び」の幅が広がっている実感はありますか)

 あります。昔は一切遊べなかったです。ちゃんとリハーサル通りやっていました。

(だんだん、遊ぶようになったんですね)

 面白がってくれる人が周りにいると、その気になるね。周りがシーンとしていると、シュンとしちゃうけどね。「浮浪雲」では、僕は遊んだねえ。楽しかった。

▽人間はそんなもんじゃない

(さまざまな映像作品に出演されていますが、オファーを受けるかどうかの基準はあるのですか)

 あります。「良い役」「悪い役」って決めた台本は断ります。人間を良い悪いと決めてかかるのか、人間というものはそんなもんじゃない、という気持ちがムラムラと出てきます。記号で人をくくるなと。

(「浮浪雲」は複雑で人間らしい部分が現れた作品ですよね)

 時代劇は、勧善懲悪と言いますか、良い者が勝ったり、弱い者が力を合わせて勝って喝采を浴びたりするんですが、「浮浪雲」は、そうならない作品だと僕は思いました。深いドラマになり得ると思います。

(近年、テレビでは時代劇が少なくなりました)

 時代劇って、普遍的で、権力争いも恋愛も何でもできる。だから、新しい切り口で、思いもつかない時代劇が現れても良いと思います。

▽「無限」に食らいつく

(長く一人芝居をやられています。一人で演じるのと共演者と演じることの1番の違いはなんでしょうか)

 一人質芝居の時は、誰かがいる「ふり」をしないといけない。複数の人と演じる場合は、本当にいるから、「ふり」なんてしなくていい。そこが一番大きく違うところです。

 「ふり」は、(自分で)予測し、組み立てます。でも、実際に共演者がいる場合はその組み立てが効かない。こう来たら、ああ出る、という方程式がなく、その時の「ニュアンス」しか無い。

 その「ニュアンス」って心もとないんですよね。あまりにも一人芝居をしていた期間が長かったから、「ふり」の方が慣れている。だから「ふり」をしないでいいというのは、怖いんです。

 だけど、(共演者との芝居は)面白いことだなと思っています。「ふり」なんかどうでもいいんだと。計算しないでいいんだと。70歳過ぎて気が付く話ではないかもしれませんが。

(これからも一人芝居と共演者との演技、両方やっていきたいですか)

 そうですね。やりたいですね。知っちゃったからね、楽しさを。

 一人芝居の「ふり」はどんどん進化させなきゃいけないんですよ。「ふり」が新しくないと、前見たよとなっちゃう。でも、(共演者との芝居は)新しい人と出会えば、新しくなる。その違いはあります。でも、両輪でやりたいですね。

(どちらも究めたいという思いがあるのですか)

 究められないだろうなと思います。無限に続いていくものだから。僕自身は有限だから、何て言うかな、その「無限」に食らいついている。どうしてこうなっちゃったんだろうという気持ちはありますが、それは置いておいて、この両輪を生きたいなと思っています。それが幸せです。