毎年、下野新聞の正月紙面を飾る「新春しもつけ文芸」。下野新聞デジタルでは「短編小説」部門で1、2位と奨励賞に選ばれた3作品の全文を掲載する。

 

奨励賞 「春風の手前」 宮越秀彦さん(東京)

 坂をのぼるたびに、胸の奥で古い蝶番(ちょうつがい)がきしむような音がした。八幡山公園へ向かうこの坂道は、若いころにはただの緩やかな傾斜にすぎなかったのに、いまはその傾斜ですら息を切らせてしまう。桜は満開にほど遠く、しかし枝先の小さな花は、風が吹くたび、咳(せき)払いみたいにこぼれて、アスファルトの上でひらりと舞った。丘の上では観覧車がゆっくり回っている。鉄骨の輪は止まっているようにも見えるが、目を凝らすと、確かに少しずつ場所を変えて動いている。

「お父さん、こっち」

 由衣が手を振った。十九になった娘は、いつのまにか母親と同じような歩幅になっていた。久しぶりに二人で街を歩く。彼女に誘われたとき、うまく返事をできなかった。「お母さんの命日だから」と言われて、心のどこかの戸棚から、うっかり忘れていた箱が転げ落ち、ざらりとした感触が残った。十四年。命日を、今年は忘れていた。

 観覧車の下の広場には屋台の屋根がいくつか出ていて、僕はベンチに腰かけ、由衣が買ってくれたクレープを受け取る。

「ここ、ちっちゃいときも来たよね」

「ああ。あのころは、もっと観覧車が大きく見えた」

「今も大きいよ。……でも、前より静か」

 由衣はそう言って笑った。笑うと頬の形が佳代に似ている。クレープの端を少しかじり、いくつかのことを言い出せずに飲み込んだ。大学をやめた理由。あの男の顔。病院の名前。中絶の同意書。ぼくは父親でありながら、何一つ正しいタイミングで言葉を選べなかった。

 中絶の日、病室のカーテンが半分開いていて、消毒液の匂いが空気に混ざっていた。由衣は顔を蒼白(そうはく)にして横たわっていた。唇の色が消え、髪が枕に張り付いていた。「水、飲むか」という僕の言葉に、「お父さん、あの子が生まれても、あの人はきっと喜ばなかったと思う」と返し、それ以上、言葉は続かなかった。あの人、という言葉の中に、由衣の愛した男の姿が僕の頭に立ち上がる。

 それ以来、あの男の顔を思い出そうとするたび、胸の奥にゆるい怒りが溜(た)まっていった。けれど娘の前では何も言えなかった。口にすれば、彼女がその男をまだ愛しているかもしれない現実に触れてしまいそうで、怖かった。

「ねえ、お父さん」

「ん?」

「あたしさ、もう恋愛とか、家庭とか子供とか、いらないかなって思ってる。なんか、そういうのに向いてない気がする」

 僕は視線を落とした。靴のつま先に花びらが二枚、左右で非対称に乗っている。片方は今にも落ちそうで、片方は頑固にくっついて離れない。風がベンチの下を通り抜ける。観覧車の鉄が、ほんの短い音で鳴った。

 あのときも、僕は同じように黙っていた。「終わったことだから」と告げた言葉がどれほど酷(ひど)い言葉だったかを、いまならわかる。

 言葉が咄嗟(とっさ)に出ないのは、正解がわからないからだけではない。僕の言葉は、いつも誰かに触れる前に別の形に変わってしまう。佳代の入院中、病室の空気のなかで、ぼくは何かを言いかけて、結局うなずくだけで終わった夜があった。幼い由衣は眠っていて、窓の外では駐車場の白線が雨ににじんでいた。

-あなた、私との残りの時間より、この子とのこれからを大事にしてね。

 枕の端に指をかけ、少し笑って、彼女は続けた。

-男には、たぶんわからないと思うのよねえ。女にはね、自分の命より大事なものがあるのよ。

 そのとき、うなずくことしかできなかった。触れた佳代の指の湿り気は、やがて力を失っていった。

 風が少し強くなり、桜の花びらが観覧車の骨組みに貼りついた。由衣は紙の端で指を拭い、観覧車の下の柵に目を向ける。

「あ」

 小さな女の子が柵をくぐろうとして、足を取られた。体が前に倒れ、膝が石に擦れ、顔がひっ、と歪(ゆが)む。その瞬間、由衣が立ち上がって走った。紙をベンチに置き、靴の踵(かかと)を踏んだまま駆ける。転がるような動きの中で、僕の体は遅れて立ち上がった。観覧車の輪が視界の隅でゆっくり傾く。由衣は女の子を抱き上げ、膝に付いた血を見て、どうしよう、とつぶやいた途端、唇が震え、涙がにじみ、頬を伝った。

 「大丈夫、大丈夫だよ」と僕は言いながら、自販機の陰の水道を思い出し、紙コップに水を満たして戻った。

 由衣は女の子の髪をなでながら、嗚咽(おえつ)をこらえるように泣いていた。「痛いよね、痛いよね」と何度も繰り返す。その声が、誰かに謝っているように聞こえた。泣きじゃくる少女の手を握りしめながら、彼女は震えていた。

 声が自分のものなのに少し遠い。女の子の母親が遅れてやってきて、何度も頭を下げる。その頭のうえで、桜の花びらが落ちた。由衣の腕の中の女の子の泣き声が、ある一点で佳代の呼吸の音と重なった。別の季節、別の病院の廊下、二人の看護師が走り、僕は誰かの腕に止められていた。早産の危険。頭の中で意味のわからない祈りを反芻(はんすう)して、扉の前で立ち尽くした。中から、細い声がしたのだ。

-わたしより、この子の命だけは助けてください。

 あの声は、ぼくの耳の奥で十四年も鳴り続け、しかし必要なときには思い出せなかった。今、観覧車の下で、別の子の血を水で拭いながらようやく、その声が体のほうへ降りてきたのを感じた。由衣が女の子の手の甲をさすりながら、泣き笑いの顔をこちらに向ける。

「よかった、ね」

「ああ。よかった」

 僕も笑っていた。頬の筋肉が、久しぶりに別の形になっているのがわかる。風が一段強くなり、桜の小さな渦が足もとにできた。観覧車は止まっているように見えるが、やはり確かに動いている。動いているのに、安心させるためにゆっくりなのだ。だれかのために速度を落とすということが、この世にはある。

 

観覧車=2022年4月2日、鹿沼市千手町
観覧車=2022年4月2日、鹿沼市千手町

 母親に手を引かれて、女の子は何度もこちらを振り返りながら去っていった。由衣はベンチに戻り、忘れていったクレープを両手で持つ。クリームが少し沈み、紙にあたたかい指の跡が残っている。僕は自分の分をもう一度紙からすべらせて、口に運ぶ。甘さが舌に広がる。舌の上で、昔の味がひとつずつほどける。

「お父さん」

「うん」

「さっきの子、あたしに似てた?」

「似てたよ。泣き方が、とくに」

「そう? あたし、泣き虫じゃなかったよ」

 由衣は笑った。少しの沈黙のあと、彼女は言った。

「ねえ。もし、お母さんが生きてたら、今のあたし、どう言うかな」

 僕は空を見上げた。観覧車の輪が、雲の切れ目をなぞる。鉄と空が少しずつ入れ替わる。

「きっと、よかったねえって言うよ」

「……それ、何が、よかったの?」

「わからない。けど、あの人は、そう言う気がする、そういう人だ」

 由衣はうなずいた。うなずき方が、やっぱり佳代に似ている。風がベンチの背を撫(な)で、シャツの襟を冷やす。やっと気づいた。誰かを思うことは、守れなかった痛みを数えることではない。守れなかった痛みに気を取られ、長いあいだ娘の顔を正面から見られずにいた。けれど、あの小さな出来事のとき、由衣は転びかけながらそれでも手を伸ばした。ぼくも遅れて手を伸ばした。誰かを思うことはきっと、その回数のことで、倒れても、間に合わなくても、また伸ばす手の記憶のことだ。

 佳代の声が、風の奥から薄く戻ってきた。

-男にはわかんないよなあ、この気持ち。ちょっとだけ教えてあげる。女にはね、自分の命より大事なものがあるんだよ。

 その言葉は、理解しようとするほど遠ざかるが、受け取ろうとすると近づいてくる気がした。僕はうなずき、由衣の持つクレープを半分もらった。観覧車は夕焼けを受けて、鉄の色を桃色に変えていた。街の屋根の向こうで、電車の線路が細く光り、遠い鐘のような音がした。

「お父さん、ほら」

「なんだ」

「観覧車、止まってるみたいに見えるけど、ちゃんと進んでる」

「そうだな」

「なんか、すごいいいね」

「なんだそれ」

 僕たちは笑いあった。ベンチの下に、桜の影が新しく落ちる。丘を下りるころ、空は薄暗くなり、観覧車のゴンドラに灯(あか)りが点(つ)いた。輪郭の灯りが、ゆっくりと順番に回る。時間は止まらない。けれど、思いは回り続ける。速さを決めるのは、いつも隣にいるだれかの息づかいだ。

 坂の途中で、由衣が言った。

「ねえ、お母さんってさ、甘いの好きだった?」

「好きだったよ。由衣よりも」

「そっか」

 彼女は空へ息を吐いた。白くならない。春は、もう近づいている。ぼくは手を伸ばし、娘の頭にかかる一枚の花びらを取ってやった。指の腹に冷たさが残る。彼女は照れくさそうに笑い、ベンチで余ったクレープの端を差し出した。

「ほら、お父さん、もう一口」