戦後80年の今年、下野新聞の紙上でも数少なくなった戦争体験者、その子孫らが、戦争の悲惨な状況を語っている。ここではプロゴルフ界の戦争体験者が語った、当時のゴルフを巡る環境について語り継ぎたい。

 県内第1号プロゴルファーの小針春芳(こばり・はるよし)プロ(1921~2019年)は、兵役に就いた経験がある。復員後の1961(昭和36)年に試合で初めて渡米した時は、全てに驚いたという。

 日本からの海外渡航が自由化されたのは64年だから、プロゴルファーの特権で太平洋を渡った。日本国内では乗用車が庶民にとってまだ高根の花の時代。広い高速道路に「(大型乗用車が)ビュンビュン走っている。日本では見られないような高いビルが建っている。こんな国に勝てるわけがない」と、当時の国力の差を痛感したことを語っていた。

 40年にプロになったが、ゴルフクラブを風呂敷で隠して夜汽車に乗って大会会場に向かったという。「ゴルフというものが分かってもらえる人が少ない。もし、憲兵に問われるとクラブ没収もあった」と振り返っていた。その年の9月にはゴルフ自粛通達が出された。翌41年12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。「職業とはいえ、ゴルフをやっていますと言える環境ではなかった」という。

 最初の赴任地は中国山西省の臨粉(りんぷん)。師団通信隊の無線隊員として任務に就き、その後、ニューギニアに渡った。44年のサイパン玉砕後は補給が途絶え、食料も武器もない状況となった。「何もなく、つらい思い出として残っている」

軍隊時代の小針プロ(後列右から3人目)=1942年、中国・臨粉
軍隊時代の小針プロ(後列右から3人目)=1942年、中国・臨粉

 アメリカの戦闘機グラマンの攻撃から、ジャングルの中を逃げ回る毎日だったという。草原でグラマン3機に狙われたことがあった。機銃掃射で弾丸が「ズダダダダッ」と等間隔で大地に穴を開けたが、自身は動けなかったことが幸いし、奇跡的に助かった経験を持つ。

 ニューギニアの戦いでは日本兵の9割が亡くなったという。でも「戦闘での死亡は2割ぐらいで、ほとんどが病死だった」。仲間が手りゅう弾で自決したこともあった。400人の部隊で生き残ったのは13人。マラリアで多くの仲間が亡くなり、毎日のように仲間の墓を掘った。自身もマラリアにかかり、長年苦しんだ。

 その小針プロから1冊の冊子を頂いた。「ゴルフに生きる 人生八十年“ただ一筋”」。著者は初代日本プロゴルフ協会(PGA)理事長としてプロゴルフ界をけん引した安田幸吉(やすだ・こうきち)プロ(1905~2003)だ。91年のプロゴルフ界初となる叙勲(勲三等瑞宝章)受章を記念して出版した赤表紙の立派な冊子だ。

 つづられた中に興味深い話があり、紹介してみたい。安田プロは子ども時代から東京ゴルフクラブでキャディーをし、17歳からレッスンなどのプロとしての活動をスタートした。クラブの製作や修理にもたけており、27年には昭和天皇へ献上するクラブ製作を任されている。

 25(大正14)年に徴兵検査を受けた安田プロ。当時は現在の成人式に当たるようなもので、これを終えないと一人前の男として認められない時代だったという。東京・品川で行われた検査は健康に何も不安はないのに、兵役免除となる「第二丙種」となった。

 プロゴルファーと言っても全く分かってもらえない時代。身上調査で、検査官から「ゴルフ場とはどんなところで、どういう人たちが来るのか」と聞かれ「東京ゴルフクラブの総裁は朝香宮さま」と答えた。皇族、華族、財界、政界の名前を並べたところ、「そうか、それじゃお前がいなかったら、みんな困るな! それじゃいいや」となったと記されている。「兵役義務を免除されてうれしくない者はだれもいない。夢のようだった」と本音も。小針プロとは真逆の戦中を過ごした。

 戦前は皇族、華族、財界、政界など一部の限られた人たちだけのスポーツだったゴルフ。その後、庶民にも伝わった。銀行内部に「シングルの社長には金を貸すな」というおきてがあるとやゆされた時代を経て、今は中学、高校にゴルフ部が存在する時代になった。変われば変わるものである。

 そして、国民スポーツ大会(旧国体)の正式競技となり、オリンピックでも正式競技に復活となった。戦後80年。堂々とゴルフができる喜びを、改めてかみ締めたい。