足利銘仙をPRするポスター。名女優八千草薫さんがモデルをつとめている。

 【足利】足利は「三度天下に君臨した」と評されている。足利氏の室町幕府創設、「日本で最古」の足利学校の隆盛は分かるが、三つ目の「足利織物の繁栄」は知らない人も多いのではないか。昭和初期に生産高日本一となった平織り絹織物「足利銘仙」。理由を調べてみると、足利人特有の性質が影響していることが見えてきた。

 安価でおしゃれな着物として、一世を風靡(ふうび)した「足利銘仙」。1939年には、伊勢崎(群馬県)などを抑え、全国1位の銘仙生産量を誇った。だが黎明期(れいめいき)の足利産の評判は「粗野乱造」で品質が悪く、九州の小売店では取り扱わないことでむしろ信用を高めていた。 

「全国最低」の評判からの大逆転劇。鍵を握った存在として、市美術館の元館長大森哲也(おおもりてつや)さん(66)は「足利銘仙会」を挙げた。1927(昭和2年)に有志7、8人で組織し、起死回生を狙って幾多の努力を展開したという。

 その努力とは何だったのか。足利産のセールスポイントとして当時の業界人は、「意匠の斬新」「地質の堅牢(けんろう)」「値ごろ」を挙げていた。デザインと品質が良く、安い商品で、現代風に言えば「ファストファッション」に変貌させた。

 安さは、足利で発明された独自の技術「半併用」の導入が大きい。仮織りして経(たて)糸を型紙で染めた後、緯(よこ)糸を簡略的に染める。緯糸と経糸を同様に染める「併用」よりも手間が半分となり、コストパフォーマンスが良く、デザインのバリエーションも広がった。

 デザイン自体は、織元と東京の百貨店、京都出身などのレベルの高い図案家(デザイナー)の3者が協力して、先進的な銘仙柄を発案していた。

 画期的なマーケティング戦略も展開した。有名画家によるポスターや、有名な作詞作曲家によるレコードを製作。オリジナルの歌舞伎を創作し、歌舞伎座で公演までした。

 と、ここまで調べてきて、新たな疑問が頭をもたげてきた。なぜ、先人たちはこれだけの技術革新や戦略を実行できたのだろうか。

 大森さんは「足利人の特徴である『進取の気質』が影響しているのだろう」と推測。従来の習わしにとらわれず、積極的に新しい物事へ取り組んでいく足利人。この気質が「三度の天下一」を生んだのかもしれない。