今回は2024年1月に76歳で帰らぬ人となった高橋五月(たかはしさつき)プロについて触れてみたい。ゴルフがうまく、ユーモアいっぱいの人だった。県内の若手プロも知る人が少なくなっており、実に寂しい限りだ。

 昭和の県内プロゴルフ界をけん引した。シード選手30人の時代にシードを6年間守った実力者だった。確かに、小顔ではなく、自ら「大顔喜願」という四字熟語を作って千社札にするなどユニークで弁が立った。

第15回栃木オープンで3度目の優勝を飾り、優勝カップを手にする高橋プロ
第15回栃木オープンで3度目の優勝を飾り、優勝カップを手にする高橋プロ

 横浜市出身。東京・荒川高(現荒川工科高)卒。ゴルフとの出合いは21歳、東京・品川のゴルフ練習場でアルバイトしたのがきっかけだった。後に師匠となる杉本英世(すぎもとひでよ)をはじめ、石井富士夫(いしいふじお)、内田繁(うちだしげる)、村上隆(むらかみたかし)といったそうそうたるトッププロがオープン記念で訪れたという。当時はアメリカ流の「アメ」全盛時代。「ポンティアック、クーガに乗って全員がカシミヤのブレザー、オーストリッチの靴。かっこ良かった」。自分の進む道を模索していた高橋青年の進路は、この時決まった。

 “ビッグ杉”こと杉本プロの仲介で、栃木CCの研修生に。26歳でプロテストトップ合格を果たした。クラブを握ってわずか5年でプロになった。才能は秀でたものがあったようだ。夫人は栗山村(現・日光市)出身で「3人の子どもも栃木で育っていて、私も立派な栃木人」と胸を張っていたのが懐かしい。

 栃木オープン3勝と群馬県オープン1勝の通算4勝。惜しくもツアー初優勝を逸したのが1984年の全日空札幌オープン(札幌GC輪厚コース)。泉川(いずみかわ)ピートにプレーオフで超ロングパットを決められ優勝を逃した。「100回打っても入らないような2段グリーンのスネークライン。一発で決められたのだから忘れられない」と悔しがった。

栃木オープン3勝の高橋プロ=1989年大会、塩原CC
栃木オープン3勝の高橋プロ=1989年大会、塩原CC

 パーシモン時代の飛ばし屋。でも、実は器用でアプローチがうまく、ツアーでもよくチップインバーディーを奪っていた。そのキャラクターから、杉原輝雄(すぎはらてるお)プロなど大物プロにかわいがられたことは有名だ。「大切なのはあいさつ。あいさつは立ち止まってすること。歩きながらは絶対駄目」と話していたのが印象深い。

 話術にもたけていた。あるトーナメントのプロアマ戦の表彰式で急きょ、司会を担当することに。その流ちょうな話しっぷりがテレビ局社長の目に留まり、長らく女子トーナメント中継のラウンドリポーターを担当した。「楽しい仕事だった」と、笑みを浮かべていた。また、宮の森CCの開場パーティーでは「鳥取が生んだスーパースター」、コメディアンの小野(おの)ヤスシさんと組んで司会を担当し、会場を盛り上げていた。

下野市制10周年記念チャリティー特別講演会で熱弁を振るう高橋プロ
下野市制10周年記念チャリティー特別講演会で熱弁を振るう高橋プロ

 7冊の著書があった。「お人好(よ)しではゴルフはうまくならない」(ごま書房)のビデオが売れまくったという。「どうせ売れないからと契約で200万円を頂いただけ。あれは失敗した」と苦笑いしていた。

 愛情を注いだ長女は漫画家の雲田(くもた)はるこさん。文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞に選ばれた「昭和元禄落語心中」の作者でもある。

 晩年は頸椎(けいつい)ヘルニアのため競技を断念したが、日々の練習は続けていた。「ゴルフはすばらしい。技術アップも大切だが、人間関係も構築できる。何歳からでも挑戦できるし、何歳までもできる。お薦めします」と熱弁を振るっていた。黄泉の世界では大先輩の杉原プロ、中村寅吉(なかむらとらきち)、小針春芳(こばりはるよし)プロ(那須塩原市出身)ら殿堂入りの大物プロを相手に、ゴルフ談議に花を咲かせていることだろう。

 もう一度、取材したかった。