「戦争なんていいことは何もない」と話す藤原和子さん。銃弾の音が今も忘れられないという=9月8日、長野県安曇野市(中村桂吾撮影)

戦後、ふみゑさんらが再入植した集落に立つ、開拓の歴史を刻んだ石碑=9月14日、長野県松本市

「戦争なんていいことは何もない」と話す藤原和子さん。銃弾の音が今も忘れられないという=9月8日、長野県安曇野市(中村桂吾撮影) 戦後、ふみゑさんらが再入植した集落に立つ、開拓の歴史を刻んだ石碑=9月14日、長野県松本市

 「せめて赤飯でも作るかね」。1945年10月1日朝、当時12歳だった藤原和子(ふじわらかずこ)さん(92)=長野県安曇野市=は、母ふみゑさん(故人)とそんな話をしていた。満州(現中国東北部)のハルビンに近い第8次張家屯信濃村開拓団の本部集落。団の祭りの日に当たっていたが、同年8月のソ連軍侵攻と日本の敗戦でそれどころではなかった。

 すると突然、空気を切り裂く音とともに銃弾が飛び込んできた。「満人」と呼んでいた現地民による襲撃だった。開拓団が土地を安く買いたたくなどしたため、日本人に反感を持つ人も多かった。

 藤原さんは5歳の弟を背負って林に逃げ込んだ。「泣いちゃだめだよ」。気付かれないよう小さなお尻をぽんぽんたたいて言い聞かせた。逃げ惑う中、親に捨てられた赤ちゃんの泣き声を聞いた。子どもの首を帯で絞める女性も目にした。乳飲み子だった末の弟亘(わたる)ちゃんを背負った母は諦めたように座り込んだ。