「歴史を伝えていかないかん」と爆発事故に思いをはせる小松敏彦さん=7月22日、高知県香南市夜須町手結山の自宅

試走する震洋(「写真集 人間兵器 震洋特別攻撃隊」より)

「歴史を伝えていかないかん」と爆発事故に思いをはせる小松敏彦さん=7月22日、高知県香南市夜須町手結山の自宅 試走する震洋(「写真集 人間兵器 震洋特別攻撃隊」より)

 1945年8月15日で太平洋戦争は終わった、はずだった。翌16日、高知県の香美郡夜須町(現香南市夜須町)で出撃準備をしていた特攻艇「震洋」が爆発する事故があり、111人の若い命が散った。

 震洋は、「本土決戦」が叫ばれた戦争末期に旧海軍が開発した。ベニヤ板を組んだモーターボートに250キロもの爆弾を積み、敵艦に突っ込む。操縦者は二度と戻れない特攻兵器だった。

 太平洋沿岸に配備され、夜須町には45年5月、25艇と160人の隊員が割り当てられた。全員が20歳前後の県外出身者。ボートを納める格納壕(ごう)を掘る作業には、地元住民も駆り出された。

 隊員は民家に分宿していた。当時11歳の小松敏彦(こまつとしひこ)さん(91)=香南市夜須町手結山=は、下宿先ではなかった近くの叔母宅に3、4人が毎日のように食事や入浴に訪れる様子を見た。

 「食べ物のない時代じゃった。けんど、地元の人はおもてなしをしよった。隊員も母親が恋しかったのかもしれんね」