長崎に原爆が投下された後の惨状を振り返る白岩さん。母は島に渡って2年後に急逝した=5月29日、長崎県新上五島町の自宅(田中英樹撮影)

原爆投下後、上空から撮影された爆心地周辺(米国戦略爆撃調査団撮影、長崎原爆資料館所蔵)

長崎に原爆が投下された後の惨状を振り返る白岩さん。母は島に渡って2年後に急逝した=5月29日、長崎県新上五島町の自宅(田中英樹撮影) 原爆投下後、上空から撮影された爆心地周辺(米国戦略爆撃調査団撮影、長崎原爆資料館所蔵)

 1945年8月9日、長崎市で幾万もの命を一瞬にして奪った原子爆弾。凄惨(せいさん)な記憶と放射線による健康不安は、80年たってもなお人々の体に巣くう。

 白岩八千子(しらいわやちこ)さん(96)=長崎県新上五島町=は当時15歳。長崎市稲佐町3丁目(当時)に家族9人で暮らし、淵国民学校高等科を卒業後、三菱重工業長崎造船所(同市飽の浦町)で働いていた。

 午前11時2分、昼食前に洗面所で手を洗おうとしていると突如、「電球が破裂したような光と雷のようなごう音に襲われた」。造船所から北に3キロ余り離れた浦上地区上空で、米軍のB29爆撃機が投下した原爆がさく裂した。

 工場の敷地内のトンネルに避難。数時間過ごして自宅へ向かったが、わが家はつぶれ、一帯には火の手が上がっていた。「自宅にいた母が死んだと思って大泣きした」という。