1945年8月9日、長崎市で幾万もの命を一瞬にして奪った原子爆弾。凄惨(せいさん)な記憶と放射線による健康不安は、80年たってもなお人々の体に巣くう。
白岩八千子(しらいわやちこ)さん(96)=長崎県新上五島町=は当時15歳。長崎市稲佐町3丁目(当時)に家族9人で暮らし、淵国民学校高等科を卒業後、三菱重工業長崎造船所(同市飽の浦町)で働いていた。
午前11時2分、昼食前に洗面所で手を洗おうとしていると突如、「電球が破裂したような光と雷のようなごう音に襲われた」。造船所から北に3キロ余り離れた浦上地区上空で、米軍のB29爆撃機が投下した原爆がさく裂した。
工場の敷地内のトンネルに避難。数時間過ごして自宅へ向かったが、わが家はつぶれ、一帯には火の手が上がっていた。「自宅にいた母が死んだと思って大泣きした」という。
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