長岡戦災資料館で祖母リノさんの遺影を見つめる横山修次さん=6月18日、長岡市城内町2(撮影・金子悟)

米軍が空撮した模擬原爆の落下地点に残った大きな穴(赤丸の中)=1946年4月、長岡市(国土地理院所蔵。赤丸を加えています)

長岡戦災資料館で祖母リノさんの遺影を見つめる横山修次さん=6月18日、長岡市城内町2(撮影・金子悟) 米軍が空撮した模擬原爆の落下地点に残った大きな穴(赤丸の中)=1946年4月、長岡市(国土地理院所蔵。赤丸を加えています)

 ガランガランと、空が割れるようなごう音がとどろいた。終戦間際だった1945年7月20日の午前8時過ぎ。1発の爆弾が新潟県長岡市左近町の畑に落ちた。広島と長崎に原子爆弾を投下した米軍特殊部隊が、事前訓練として全国各地に落とした「模擬原爆」だった。

 現場近くに住んでいた横山修次(よこやましゅうじ)さん(83)=新潟県柏崎市=は当時3歳だった。祖母リノさん=当時(61)=に付き添われ、離れの雪隠(トイレ)で用を足していた時に被災した。

 すさまじい衝撃で近くの民家は吹き飛ばされ、木々もなぎ倒された。リノさんは即死。修次さんも破片で腹を負傷した。「わあわあ泣いたことだけは覚えている」。泣きじゃくり、リノさんの体を揺すり続けた。

 模擬原爆には高性能火薬が詰まっており、長岡市では4人が亡くなり、5人が負傷した。「ばあさんは立っていたから直撃を受けた。私はしゃがんでいたから助かった」。修次さんはリノさんが「身代わり」になってくれたと振り返る。