1面コラムは新聞の「顔」とも言われる。戦前の下野新聞は不定期掲載だったが、戦後の1947年5月に始まった「平和塔」で常設欄として定着した。56年後の2003年7月に「雷鳴抄」に生まれ変わり、1日で満20年の「成人」となる。本紙は6月1日で創刊145周年を迎えた。7月1日には記念事業「感謝の集い」を開く。この節目に、戦後を中心に本県の歴史の一場面を刻んできた平和塔と雷鳴抄をピックアップし、時代の目撃者として県民読者と共に歩んできたコラムを紹介する。

戦時中に掲載されていた「時感時評」

 戦時中の1943(昭和18)年4月1日付下野新聞1面トップは、6町村合併で同日に市制が施行された旧佐野市を祝福する記事であふれた。当時のコラム「時感時評」も「佐野市民の喜びはいうまでもなく県民としても同慶の至りである」などとしつつ、市制施行を戦意高揚に結び付ける戦時下独特の表現もあった。

初回の「平和塔」

 

 1947(昭和22)年4月に初めて実施された統一地方選。同年5月2日付の1面は「4月選挙は終わった 地方議会の顔ぶれ決定」などの見出しと記事で大半を県議選や市町村議選の結果に割いた。この日から1面コラム「平和塔」が始まる。当選議員について「確かに新鮮味はあるが、ただそれだけでは何もならない」として国民のための政治を求めた。翌3日は日本国憲法の施行日。恒久平和をうたう新憲法と共に「平和」の名を冠したコラムが歩み始めた。

作新の春夏連覇をたたえる「平和塔」

 

 作新学院は1962(昭和37)年8月19日の第44回全国高校野球選手権大会決勝で福岡・久留米商を1-0で破り、史上初の春夏連覇を達成。同20日付の1面は、優勝旗を手に甲子園球場内を一周する選手たちの大きな写真を掲載した。「平和塔」は見出しが入った時期もあり、この日は「作新の春夏優勝を祝う」として「試合態度も立派だったし、何一つ言うことはない」と快挙をたたえた。

「日光の社寺」世界遺産登録翌日の「平和塔」

 

 新世紀を目前に控えた1999(平成11)年12月2日、本県の悲願がかなった。後世に残す貴重な文化遺産として日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社の「日光の社寺」が世界遺産に登録された。翌3日付の1面は「日光の社寺 世界遺産に」の大きな横見出しで歓喜を伝える一方で「平和塔」は息の長い観光振興策を訴え、環境保全に警鐘を鳴らした。「“勲章”をどう生かすか。市民は夢と同時に大きな宿題を抱えた」と結んでいる。

初回の「雷鳴抄」

 半世紀にわたり下野新聞の「顔」を務めた「平和塔」に代わり、2003(平成15)年7月1日付から1面コラムは名称を「雷鳴抄」に一新して再スタートした。前日6月30日付の最後の平和塔は「ここは全国有数の雷発生県だ。『雷鳴』を県民の声と受け止めながら、読者の胸に鳴り響くコラムをつづりたい」と締めくくった。初回の雷鳴抄は「県内には『雷』の字が付く神社は35ある」などと本県の雷神信仰を紹介している。

東日本大震災発生翌日の「雷鳴抄」

 
 

 1面の「東北で震度7」「国内史上最大M8・8」の見出しの文字が衝撃の大きさを物語る。東日本大震災発生翌日の2011(平成23)年3月12日付の下野新聞は、1面をはじめ社会面や特集面で県内外の被害状況や余震におびえる県民の表情などを克明に伝えた。繰り返す余震を感じながら社内でつづった「雷鳴抄」からは緊迫感が伝わる。今となれば貴重な記録である。