『僕らには僕らの言葉がある』1巻

 『僕らには僕らの言葉がある』より

 『僕らには僕らの言葉がある』より

 『僕らには僕らの言葉がある』より

 『私たちが目を澄ますとき、』(講談社)

 『僕らには僕らの言葉がある』より

 『僕らには僕らの言葉がある』より

 『僕らには僕らの言葉がある』1巻  『僕らには僕らの言葉がある』より  『僕らには僕らの言葉がある』より  『僕らには僕らの言葉がある』より  『私たちが目を澄ますとき、』(講談社)  『僕らには僕らの言葉がある』より  『僕らには僕らの言葉がある』より

 耳が聴こえない男子高校生が公立高校の硬式野球部で過ごす日々を描く話題作『僕らには僕らの言葉がある』(KADOKAWA)が第3巻で完結した。「誰もが意識しないまま抱えている差別感情」を描きながら、野球部員たちの成長を通じて、耳が聴こえない人にも、聴こえる人にも感動を届けたい―。作者の詠里さんは、そんな思いで執筆した本作に「私の思想を100%込めた」と語る。(取材・文 共同通信=川村敦)

【あらすじ】中学までろう学校に通っていた相澤真白は、公立高校に「インテグレーション」(統合)生徒として入学し、ピッチャーとして硬式野球部に入部。冒頭のミーティングで、手話でのあいさつの後に深々とお辞儀をする真白に、部員たちは困惑しきりだった。そんな中、真白のボールを受けたキャッチャーの野中が、覚えたての手話で「ナイスボール」と伝えるところから物語が始まる。

(1)分からないことを認める

―耳が聴こえない人を主人公に据えた漫画は多いですが、本作はかなりリアリティーが高いです。手話での会話の場面でも、意味を解説した吹き出しがありません。

詠里 そうですね、あえて吹き出しを入れていません。音声で会話する場合と、手話で会話する場合とではテンポが違います。読んでいる人が分からなくてもいいから、真白君が話しているテンポを(漫画の)画面の中にできるだけ再現したいと思いました。

―あえて解説していないのですね。

詠里 私自身、読者として聴覚障害を描いた漫画を読んでいた時に感じていた一番の違和感が、話者のテンポでした。私たちは手話が分からないのだから、分からないことをまず認めないといけない。私はそれをすごく大事にしています。

―難しい挑戦だったのでは?

詠里 悩ましい部分でした。それでも、音声のせりふでしゃべる者と同じ描き方は使いたくない。

―逆に、手話が第一言語の人にとっては自然ですね。

詠里 私はこの作品を、当事者の方にも読んでほしいと思って描いていました。これまでの他の漫画は、どうしても聴者に対して情報を提供するような形の作品が多く、当事者が読んでいるという意識が欠落している作品もあったと思います。

―聴覚障害者の描かれ方の歴史にはステレオタイプがありますよね。

詠里 ありますね。耳が聴こえないから葛藤や屈折を抱えているというふうに描かれやすい。本当はそうではなくて、私たち聴者側が受け入れようとしないから、しなくていい苦労をさせているんです。

 暴力やヘイトスピーチだけが差別じゃない。本当の差別は、毎日、誰もが意識していないところで起こっていて、「聴こえない人に対して、殴ったり、補聴器を壊したりしていない私は差別をしていない」と思ってしまうのが一番危ないんです。

(2)これまでの漫画にいなかったキャラ

―真白と野中、2人のキャラクター造形について教えてください。

詠里 真白君はあえて、無害そうで、いい人そうなキャラにしています。さっき言った通り私は、聴覚障害者が、聴こえないから苦しんでいるという設定には反対ですから、聴こえない自分に屈折した感情を持っていないという設定です。

 真白君は中学生までに、口でしゃべるとか、補聴器や人工内耳を使う「聴覚活用」の訓練を全くしていません。そういう子どもが高校生になったら、真白君みたいな人になってもおかしくないと思うんです。

―『僕らには僕らの言葉がある』を執筆中に、真白君の母親の芙美子を主人公にした漫画『私たちが目を澄ますとき、』(講談社)も描かれていますね。

詠里 真白君を育てた親がどんな人か描きたいと思いました。子どもの頃は左耳にわずかに残存聴力のある難聴児だった芙美子さんは、補聴器を着けて、ろう学校で発音訓練を受けました。

 耳が聴こえる人ならしなくてもいい訓練をさせられた上、成果も思わしくなくトラウマだけが残りました。芙美子さんは、12歳の時に父親から『赤毛のアン』の英語版を手渡されたことをきっかけに文芸の翻訳家となり、現在は経済的にも精神的にも安定しているという設定です。

―芙美子の父親が、聴こえなくても「本の世界なら関係ない」「聴こえなくても君はなんだってできる」と伝えるシーンは感動的でした。

詠里 そんな芙美子さんが母親だったからこそ、真白君が真白君になった。

 聴覚活用を全くしないことについては、聴覚障害者の間でも賛否があります。口でしゃべれて、聴こえる人と話しやすくなるという機会を放棄したという意味では、褒められた行為ではないという意見もある。ただ、聴覚活用をしないという選択肢が、聴こえない、聴こえにくい子どもたちにしっかりと提示されているとは思えません。本来は、するもしないも自分たちで判断していいはずです。

―聴覚活用が「当たり前」のようになっていますよね。

詠里 はい。それに聴覚活用をしていない人は現実にたくさんいるのに、なぜかこれまでの漫画の中にはほぼ出てこない。だからこそ、真白君が社会の中に入ってきたときに、社会のメンバーにいったい何ができるのか、どういうふうに向き合ったらいいかというのを描きたいと思いました。

(3)男性向け漫画で弱さと向き合う

―野中のキャラ造形については?

詠里 ノナ(作中での野中のあだ名)はいかにも男っぽい感じ。周りにいる高校球児たちを観察して考えていったんです。

―真白と正反対のキャラですか?

詠里 そうですね。最初から手話ができるとか、身内に聴こえない人がいるとか、そういうのはずるい設定だから駄目。ノナもみんなと同じように差別意識があって、なんなら野球をする上で「邪魔」だと思っている。

―実際、真白について「こんなやついるだけで邪魔だ」と思っていた野中は、真白の良き理解者でありたいと思うようになりますね。

詠里 そうですね。聴こえない人を、聴こえる人が助ける形って、一昔前なら美徳とされていたことだと思います。でも今は、聴こえる人間が施しているのを、施される側がどう思っているかをしっかり考えないといけない。

―野中の真白への依存を、野球部の監督が問題視するシーンもあります。

詠里 ノナは極端だから、仲良くなりたい真白君に固執しすぎる。自分にも弱さがあって、助け合わないといけないのに、絶対自分は助ける側だと思っている。そこを監督に見極められたんですね。

 男の子や男性向けの漫画には、自分の心の弱さを直視しない展開の作品が多い気がしています。むしろ徹底的に避けようとしているというか…。だからこそ、ノナにはきちんと自分の内面と向き合う展開をつくりました。

(4)見返りを求めずに打ち込む

―野球、お好きなんですか?

詠里 高校野球をテレビで見ることはあったんですけど、プロ野球は全然見てないです(笑)。競技としての野球というより、野球をしている人が好きなんです。阪神間に住んでいると、漫画で描かれる甲子園と、実際の姿に、ものすごく違いがあることに気付きます。この地域に住んでいる多くの高校球児にとって、甲子園は「行くところ」ではなく「見に行くところ」なんです。私は、この地域の高校球児たちの姿の方に興味があるというか。

―確かに甲子園は近くても遠いですよね。

詠里 そうなんですよ。全国レベルの野球を見せつけられ、甲子園大会に出場するなんて夢のまた夢。それでも野球をやっている子たちに興味がある。見返りを求めずに野球に打ち込む姿に引かれるんです。

―漫画なら強豪校を舞台にしそうです。ドラマも作りやすいでしょうし。

詠里 あれはゆがんだ世界ですね(笑)。私が好きなのは、夏の甲子園大会の地方予選ですぐに負けちゃって、でも負けたことをすごくいい思い出として覚えている球児たちです。いつかは誰もが経験する挫折を、いい思い出として抱いている。逆に挫折が遅いと、野球そのものを嫌いになってしまったり、その経験から得たものを一切合切捨てたりしてしまう人が多いような気がしてなりません。

―幼い頃から漫画家を志されていたんですか?

詠里 お父さんが絵を描くのが好きで、幼い頃からそのまねをして描いていたみたいです。小学生の時に簡単な漫画を描いて、クラスのみんなに読んでもらったことはありますが、具体的な努力はしていませんでした。きっかけになったのは、高校2年で読んだひぐちアサさんの『おおきく振りかぶって』(講談社)ですね。初めて高校野球って面白い!と思いました。

―名作ですよね。心理描写が巧みな作品でした。

詠里 そうですね。そこから野球のルールを勉強し始めて、どんどんはまっていった感じです。私に野球の最低限の解像度があるのは、こうした経験のおかげです。

(5)どう解決するか、キャラが教えてくれた

―本作も、野球というスポーツそのものを描くというより、野球に向き合う人同士の関係性にスポットライトを当てます。

詠里 試合中のドラマとか、かっこいい野球のシーンとかは、うまい作家さんがたくさんいるので、私が描かなくてもいいかなという気持ちはあります。それよりむしろ、連載漫画だったらカットされてしまう部分を描きたい。

―まさに真白が、みんなと手を取り合っていく過程とかですね。『フジマルッ!』ではそれを「わけあう」と表現されていました。

詠里 気持ちを分け合うって、相手と対等だからできるんだと思うんです。

 私自身、ずっと普通でいられないことに悩みを抱えていて、今も異質なものとして社会に存在していると思っています。誰かに、同じ目線で、ちゃんと話を聴いてほしいという気持ちがずっとある。違いを認め合って、対等に話をしたいというこの気持ちが、描き味に出ているのかもしれません。

―改めて、今作はどうして、聴こえない人の物語を描いたのでしょうか?

詠里 偶然、聴こえない高校球児を取り上げたテレビドキュメンタリーを見たんです。同じチームに耳が聴こえない子がいても成り立つ。それがどんなふうに成り立っているのか、勉強したいなと思いました。

―身近に聴覚障害の方がいるのですか?

詠里 いえ、いません。全く知らない状態から調べていきました。そうすると、野球で使う指でのサインが、聴覚障害がある選手から生まれたという説が濃厚だということを知りました。

 その後は、聴こえない方とSNSで交流しながら、情報や意見を集めました。そんな日々の中で、関西学院大の手話言語研究センターのとあるコラムを読んだんです。「自分自身が、聴こえる人間という集団として生きている中で、聴こえない人にどんな仕打ちをしてきたか、きちんと自省しなければならない」というようなことが書いてありました。この時、私は聴こえない当事者ではないけど、聴こえる側の当事者として、描きたいことが分かった気がしました。

―なるほど。

詠里 私が勝手に、思いやりという言葉で、聴こえない人のことを分かったふりはしてはいけないんです。怒られてもいいから、ちゃんと当事者に尋ねてみる。至らない部分はたくさんありますけど、全く考えていないよりは、考えて描いた方がいいものができると信じています。真白君のことも、どう解決するのがいいのか本人に聴いてみようというスタンスでした。

―結論が決まっていたわけではないんですか?

詠里 なんとなくこうかな、というのは頭の中にありましたが、何も考えずにネーム(下書き)を描き始めた方がいいものが出てきましたね。

―真白や野中たちのキャラが、差別のない展開へと導いてくれたということですね。

詠里 そうですね。そういう意味で、私の思想を100%込めた作品に仕上がったと思います。本当に思い入れのある作品なので、聴こえない人にも、聴こえる人にも、たくさんの人に読んでもらえればうれしいです。

 【えいり】 1990年兵庫県生まれ。高校野球部でただ1人の女性を主人公にした『フジマルッ!』でデビュー。他の作品に、草野球のチームで活躍する女性「松井さん」を描く『松井さんはスーパー・ルーキー』など。『僕らには僕らの言葉がある』は2025年の国際児童図書評議会(IBBY)バリアフリー児童図書に選定され、第9回JBBY(日本国際児童図書評議会)賞を受けた。