
その酒蔵は栃木県北東部、山を幾つか越えていき、近くに日本の禅宗四大道場の一つとされる名刹(めいさつ)の「雲巌寺」がある八溝地域の中山間地にたたずむ。産業といえば、農業と林業が中心で、およそものづくりの気配は感じられない。日本酒銘柄「旭興(きょくこう)」の渡邉酒造(大田原市須佐木)はそんな地理的条件にありながらも、「地域の誇りになる酒」「地元に愛される酒」を一貫して目指してきた。
渡邉英憲(わたなべ・ひでのり)社長(52)が提唱するのは「地酒の逆6次産業化」だ。お酒が「おいしい」という評価を受けることで、原料となるその地の米、水、ひいては食を形づくるその地の野菜・果物、肉、魚までの価値を高めることを目指す。増える耕作放棄地を酒米栽培で農地によみがえらせることも自社の役割に加える。
同社は1892(明治25)年、越後杜氏として酒造りをしていた初代渡邉栄作(わたなべ・えいさく)が農家の納屋を間借りして日本酒の製造を始めた。1912(明治45)年、現在地に移転した際、それまでの蔵から東に移転したことから「朝日(旭)が昇る(興る)」という縁起を担ぎ、銘柄名を「旭興」としたという。55(昭和30)年に法人化し、現在の渡邉社長は5代目になる。
「地元に愛される酒が『地酒』 地元で造っただけの酒ではない」が同社の社訓。地元に根付き、愛される日常の酒、地域に貢献できる酒蔵を目指している。
渡邉社長は「日本酒醸造は現在、新規の酒造免許が下りず、新たに始められない業種。毎日のように免許の売買、M&A(企業の合併・買収)の電話がかかってきます。手当たり次第かけているんでしょうね。今はそういう時代」と前置きする。「ですので(当蔵は酒造免許を持っている意味を十分鑑み)単に酒を造ってもうけるという感じではなく、地域の誇りとか地元に根差す、『おらが酒』じゃないですけど、『うちの近くにはこの地酒があるんだぞ』って言っていただけるイメージになりたいですね」。そうした思いを聞くと、「地域の誇り」「地域に貢献」という言葉に説得力が増してくる。
「地酒」について話が及んだ。「学生時代、沖縄でアルバイトした時、沖縄で飲んだ泡盛がとてもおいしかったので、買ってきて東京で飲んだ。でもおいしくないんですね。やはり気候との兼ね合いがあるんですよ。会津に行って山形の『十四代』がありますと言われても、地酒なら違う、会津に来たら会津の酒を飲みたいと思うんですね」と渡邉社長。「栃木県内だって日光に行けば地元に良い酒があるし、宇都宮、栃木、佐野だってそれぞれ地元に良い酒がある。宇都宮駅前で飲むなら『四季桜』さんとかの方がおいしい気がします」。同社がいう「地域」「地元」のイメージを聞くと、那須地域の旧7市町村(現2市1町)を描いているという。
渡邉社長は東京農大醸造学科卒。酒造りへの新たな取り組み、研究熱心さから、ある酒販店主は「彼は天才肌ですよ」と評する。2013年には国のものづくり補助金を活用して、さまざまな香りの成分を分析して数値で見える化する高価なガスクロマトグラフィー(気体分析装置)を導入。また麹(こうじ)菌の力価(効き目の強さ)を分析する分光光度計、酵母培養装置など、一般の酒蔵ではなかなかお目にかかれない機器類を備える。
これら機器類の活用について「酵母のメンテナンス作業がメインです。新しい酵母をつくるなんて今はレベルが違う。大手酒造の研究所では酵母の開発を遺伝子レベルで取り組んでいますから」と話す。
栃木県の清酒酵母は1993年までに4種が開発された。この県産酵母が普及し始めると、全国新酒鑑評会などで好成績が相次いだ。ただこれらの酵母は、県産業技術センターが特性を継承する「継代培養」に取り組むものの、劣化の懸念もある。渡邉社長は自身が納得する酒を造るためのチェックが欠かせないという。また醸造協会誌での研究論文で興味があるテーマを見つけると、そのレシピ通りにできるかどうか、チャレンジを重ねている。
こうした取り組みは成果として結果が出た。全国の「南部杜氏」資格者が醸した酒の研さんを図る「南部杜氏自醸清酒鑑評会」(岩手県・南部杜氏協会主催)。2019年の第100回鑑評会、22年の第103回鑑評会のいずれも吟醸酒の部でナンバーワンの「首席」に輝いた。南部杜氏資格が岩手県外の杜氏も取得できるようになった1996年以降、岩手県外の杜氏が首席になったのは2人目で、栃木県の杜氏としては初の快挙だった。
このほか酒を使って酒を醸す「旭興 貴醸酒 百」、濁りのないスパークリング「旭興 発泡性 純米吟醸 SAL」、味重視の「味吟醸」といわれる「昭和の吟醸酒」など個性的な酒の商品化に結びついた。
一方で、渡邉社長のポリシーには「地酒の逆6次産業化」がある。通常、「6次産業化」とは、第1次産業の農業や水産業が第2次の食品加工、さらには第3次の流通販売分野にまで乗り出し、第1次産業が下から積み上げて高付加価値化、所得向上を目指すことだ。
地酒の逆6次産業化は一番上に地酒の酒蔵がある。酒蔵はおいしい地酒を造り、販売することで、消費者にその原料米、水のある地域に注目を集める。お米そのものもおいしいと感じてもらい、そうしたおいしいお米を生産する地域の環境なら野菜・果物、肉、魚もおいしいはずと思ってもらえるようにすることで、地酒を頂点に、裾野となる第1次産業の地域農水産業の付加価値を高め、所得向上を狙う考え。
昨年からその取り組みが新たに動き出した。渡邉社長が大田原市に働き掛けていた国の構造改革特区計画「おおたわら果実酒特区」が認められた。ナシ、イチゴ、ブルーベリーの果実酒を対象に年2千リットルから製造が可能になった。昨年11月、規格外のナシ「にっこり」2トンからナシのシードルを仕込み、今年2月には「梨の縁~ENISHI~」を商品化した。
渡邉社長は「大田原の規格外ナシは県外の氷菓メーカーの原材料で使われていたが、商品パッケージに『大田原』とは出ていない。大田原で作っているナシなのだから加工しても『大田原産』って出したかった」と強調。「梨の縁」には首掛けラベル「酒造りの杜氏が造る 梨のシードル 大田原市産にっこり使用」が掛けられている。
約7年前には酒を醸す木桶(おけ)を八溝産の杉で特注して導入した。「林業はこの地域の主産業だが、以前のような元気がない。『八溝』自体も『はちまん』『はちみぞ』とか言われ、『やみぞ』とは呼んでもらえない。何とか八溝杉をPRしたかった」。容量は千リットルと小さいが、未使用時には冷蔵庫で保管し、衛生管理を徹底できるようにした。八溝杉木桶仕込みの純米吟醸は徹底して地元・八溝の味わいを追求する。
しかし一番気がかりなのは、須佐木地区でも高齢化と人口減で例外なく耕作放棄地が増えていることだ。今年は蔵の目の前の耕作放棄地約1反歩(約10アール)を借り、酒米「五百万石」を自ら作ることにした。「今は消滅しないことが重要なレベル」と言い、まさしく酒蔵の「地域貢献」になる。「地元の農家さんと小さくてもいろんな種類の米を作るなど、もっともっとやってみたい。将来的には従業員が夏に米を作り、冬は酒を造るというのが本当の意味での酒造りになる。いろいろと時代に適応しなければならないが、『地元の意義』をもっと再認識していきたい」と語る。
渡邉社長の話は「八溝」という都市部とはかけ離れた地で聞いたからかもしれないが、「愛される」「地域に根付く」「地域へ貢献」という、ややもすると正論すぎて気恥ずかしいフレーズがすごく説得力を持って聞けた。その夜、下野新聞を包装紙に使い、その上からラベルが貼られた「旭興 たまか」を飲むと、そんな思いの味わいが感じられるのも不思議ではなかった。(伊藤一之)

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