足利・百頭(ももがしら)、宇都宮、小金井…。1945年に入り、容赦なく続く空襲に県民はおびえていた。敵機がわが物顔で上空を飛ぶ光景は日常化した。
陸海軍は事実上、追い込まれていた。戦闘機、潜水艦が片道分の燃料と爆弾を載せて敵機、敵艦へと突進する捨て身の「特別攻撃(特攻)」、部隊全滅覚悟で敵陣へ切り込む「万歳突撃」が繰り返された。
国内唯一の地上戦となった沖縄戦は6月23日、組織的戦闘が終結。約3カ月間で、日米の軍人と市民計20万人以上が命を落とした。
それでも軍部は本土決戦も辞さない覚悟で、市民には竹やりでの戦闘訓練を強いた。
8月。広島、長崎に「新型爆弾」が相次いで投下された。世界最初の原子爆弾。一瞬で何万人もの命を奪い、街は焦土と化した。
「朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…」
8月15日正午、玉音放送。多くの国民は初めて、昭和天皇の声を聞いた。
「雑音ばかりでよく分からない」
宇都宮市西川田3丁目、大塚房子(おおつかふさこ)さん(89)は同市内の農家の庭で聞いた。
「負けたんだよ」。近くの誰かの言葉で、敗戦を告げる放送だと知った。
敗戦 ■ 「悔しさ、憤り、むなしさ…何もかも悲しかった」
「お国」倒れ、残る苦難

手渡された紙片には、こう書かれていた。
「我が陸軍は健在なり」
1945年8月15日、敗戦を伝える正午の「玉音放送」を聞いた直後。勤めていた陸軍宇都宮飛行場に戻ると、上官からビラの印刷を命じられた。
受け取った大塚房子(おおつかふさこ)さん(89)は20歳になったばかり。急いで印刷機に向かい、束になるほど刷り上げた。
まだ戦える。降伏しては駄目だ-。飛行機からばらまくのだと聞いた。
間もなく別の上官に見つかり、とがめられた。
「何やってるんだ。こんなものが見つかったら大変なことになるぞ」
焼却を命じられた。大塚さんは「残念な思い」で、ビラ束の炎を見つめた。
信じていた「お国」が倒れ、軍人、国民、全ての人々が混乱していた。
◇ ◇ ◇
敗戦から1カ月ほど後。野木町野木、田村行子(たむらゆきこ)さん(84)宅に一通のはがきが届いた。
45年8月6日、広島市に落とされた「新型爆弾」で死んだと思っていた8歳上の次兄辰雄(たつお)さんからだった。
「迎えに来てほしい」
生きていた。血の痕がついたはがきを読み、次兄の勤務先だった広島へと60歳すぎの父が向かった。
父が連れ帰った次兄は、リヤカーの荷台に乗っていた。原爆で瀕死(ひんし)の重傷を負い、歩けなかった。
以来、看病が行子さんの日々の務めになった。女学校から帰ると、宿題よりもまず次兄の包帯を替えた。
両親が当時繰り返していた言葉が頭に残っている。

「今やらなきゃならないんだ、あんちゃんの看病は。命は勉強よりも大切だ」
数カ月後、次兄は歩けるまでに回復したが、晩年まで後遺症に苦しんだ。
◇ ◇ ◇
周囲の誰もが泣き崩れていた。
「悔しさ、ひどい思いをしたことへの憤り、むなしさ…。何もかもが悲しかった」。小山市下生井、武井(たけい)フサさん(92)は玉音放送を聞きながら、言いようのない感情があふれ出るのを抑えきれなかった。
7歳上の兄は、満州(現中国東北部)で戦病死した。43年に戦死公報が届いた時、家族はわれを忘れて「村中に響き渡るほど」泣き叫んだ。
45年8月15日、ラジオの前で再び泣いた。泣いても、命も失った時間も戻らない。
武井さんは今、痛切に感じている。
「日常を奪い、思考を停止させ、若者を無駄死にさせる。戦争ほど惨めなものはない」