南方(上) ■ 生還「戦友に申し訳ない」
矢野金吾さん(95)=茂木
1969年10月、遺骨収集のためニューギニア島を訪れた。終戦後の抑留から解放された46年以来だった。現地住民に導かれ、1人の遺骨にたどり着いた時のことが今も忘れられない。
「見つけたのは海岸近く、海が見える洞窟でした。水平線を見つめ、故郷、家族を思って独り眠りについたのでしょう。泣きながら、遺骨を納めました」

日本から5千キロ近く離れた南方の激戦地ニューギニア島。43年7月、東部に上陸した矢野金吾(やのきんご)さん(95)=茂木町河井=ら野砲兵連隊を含む師団は間もなく、連合国軍に包囲された。
玉砕か、山越えの撤退か-。師団長は総勢約8700人での撤退を決意した。

そびえるのは標高約4500メートル級のサラワケット山脈。赤道直下だが、気温は氷点下まで冷え込む。目的地まで直線で120キロ程度で、確実に1カ月以上はかかる過酷な行軍だった。
携行した食料は10日分ほど。衰弱した将兵は次々と倒れた。野砲兵連隊はやむなく大砲を放棄。部隊の集団行動もままならなかった。ようやく歩ける4、5人が声をかけ、支え合った。
戦闘はなかったが、1千とも2千ともいわれる兵士が息絶えた。
◇ ◇ ◇
太平洋戦争で東部ニューギニアの本県出身戦死者は約9千人に上る。
「故郷に帰れなかった戦友たちには、生きて帰って申し訳ないと思う。戦友への思いは『冥福を祈る』という言葉では言い尽くせません。あの戦争を振り返ると、命ほど大事なものはない。本当にそう思います」
遺骨収集には73年にも参加した。97年には趣味の日本画で「パプアの夜」を描いた。ヤシの木が茂る海岸、水平線の上に浮かぶ満月。「あの絵を見ると、今も涙が出る」。戦友を亡くし、自らも命を削ったあの地を、生涯忘れることはない。
■悲惨すぎて遺族に話せず
磯直さん(92)=茂木

1944年中ごろ、歩兵連隊の一員で西部ニューギニアに入った。別隊の援軍に向かったが、密林などに阻まれたどり着けなかった。兵器さえ放棄する過酷さで、多くの戦友は戦闘でなく衰弱などで死んだ。
「自分だけ生きて帰ってしまい、申し訳ない。同年兵の遺族には、現地の詳しい話は悲惨すぎてできない。お盆は同年兵に思いを致すだけで、家には行かないようにしている。悲しみを思い出させたくないから」
■命いくつあっても足りぬ
鈴木一市郎さん(94)=壬生

1944年に半年ほど、西部ニューギニアで陸軍歩兵として従軍した。太いヤシの木を吹き飛ばすほどの爆撃で戦友が死んだ。歩兵の小銃では対抗できず、密林に隠れるだけだった。
「陸軍では爆弾を背負った兵士が戦車に飛び込む訓練さえあった。命がいくつあっても足りない。ニューギニアには今も遺骨さえ故郷に帰れない戦友がたくさんいる。悲惨さを伝えることが、戦友の無念を晴らすことになるのではないか」