
いつものように左手だけでネクタイを結んだ。
真岡市根本、村上武(むらかみたけし)さん(85)は15歳の時、輸送船上で米軍機の機銃掃射を受けて右腕を失った。それ以来の身繕いだ。
15日、自身が会長を務める市傷痍(しょうい)軍人友の会の解散式に背広姿で出席した。
2013年、日本傷痍軍人会は解散を余儀なくされた。戦後70年、元軍人たちは高齢化し、減っていく。「仲間の供養を絶やすわけにはいかない」。
市内の元軍人らは友の会として活動を続けようとしたが、もう立ち行かなかった。
式に顔を見せた人はわずか4人。3人は元軍人の妻たちで、元軍人は村上さんたった1人だ。
「忘れてほしくない」と心から願う。「戦争で犠牲になった命を、人生を」
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もうすぐ日本はあの戦争を忘れてしまうのではないか-。焦燥感を覚える人がいる。
「紺碧(こんぺき)の海から」。卓上には、こう題された自費出版の本が置かれていた。
栃木市大平町西野田、上野和子(うえのかずこ)さん(67)は本に視線を落とした。

3年前、戦時中から自責の念、哀傷を抱えたまま、母新崎美津子(にいざきみつこ)さんは90歳で逝った。「伝えなかったら母は救われない」。母が残した言葉をつづった。
1944年、沖縄から長崎へ向かう途中、撃沈された学童疎開船「対馬(つしま)丸」。若い引率教員だった美津子さんは4日間漂流し、救助された。
真っ暗な夜の海に消えた780人の子どもたち。国の方針に従って疎開を勧めていた。教え子らへの思いを、ずっと心にしまい込んでいた。
和子さんが、母の胸にあった重い塊の存在を知ったのは2006年。市内で開かれた講演会で母が語った過去に心を揺さぶられた。
撃沈から60年余、母は86歳になっていた。亡くなるまでの4年間にできた講演は5回だけだった。
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「私も、もうすぐ死ぬ。だから、今の私の姿を伝えてほしい」

元少年飛行兵の小山市乙女、高石近夫(たかいしちかお)さん(88)は12月、記者をじっと見据え、「戦後70年とはそういう時だ」と言った。
熱烈な軍国少年だった。17歳の誕生日翌日、勇み海軍航空隊に入隊した。
フィリピン・レイテ沖で搭乗した攻撃機が砲撃され、死を覚悟せざるを得なかった。命じられた特攻作戦が延期され永らえたが、多くの戦友を見送り火葬した。兄3人は戦死し両親も病に倒れた。「戦争がなければ違う人生があったはず」
戦後、「安易な気持ちで巻き込まれるのが戦争」と体験を語り歩いた。
今は難病を患う。歩くことは難しく、車いすを繰る両手も余りきかない。病の悪化とともに、もどかしさは募っていく。
国民の大半は戦争を知らない時代。「体験した人間が黙っていてはだめなんだ」