「中国残留日本人孤児」と呼ばれた人たちがいる。
終戦間際の1945年。中国東北部、満州には、開拓移民などとして日本人32万人が暮らしを営んでいた。
8月9日のソ連軍侵攻時、「根こそぎ動員」で駆り出された男たちだけでなく、女たちや子どもも戦闘に巻き込まれる。避難中の飢餓や病気による犠牲者も相次いだ。
肉親と離れ離れの孤児となり、現地で中国人に育てられた子どもも少なくなかった。
孤児をめぐって、日本政府などの調査が本格化したのは日中国交正常化以降の80年代だ。厚生労働省によると、これまでに調査した孤児は2818人。身元判明者は1284人にすぎない。
「戦争は民衆にとって何もいいことはない」
孤児だった那須町豊原丙、星益英(ほしますえい)さん(73)は81年、第1次訪日団で祖国の土を踏んだ。初の訪日なのに、「帰国」だ。父と再会を果たした。
終戦時は3歳。星さんに親の顔や戦時の記憶はない。
帰国して、引き裂かれた愛する家族の現実を知る。日本に永住した後も、日中の習慣や文化の違い、「言葉の壁」に悩まされた。
終わった戦争に、人生を翻弄(ほんろう)され続けた。
中国残留孤児 ■ 「お前は日本人 それが養母の最期の言葉」
帰国後も言葉、習慣の壁 星益英さん(73)(那須)

星益英さんが出自を知った時、終戦から既に30年が経過していた。
1975年夏。中国東北部で生まれ育った星さんは、病床の「母」の最期の言葉に耳を疑った。
「お前は日本人。本当の親を探しなさい」
結婚して子ども3人に恵まれ、平穏な暮らしを送っていた。中国人の養父母はやさしく、他のきょうだいと分け隔てなく愛情を注いでくれた。
心に波紋が広がる。「侵略した」と教えられた日本が祖国なのか。両親はどんな人、日本はどんな国だろう…。
「自分は日本人だ」という思いは次第に強まっていった。
◇ ◇ ◇
初めて訪日した翌年の82年、悩み抜いた末、妻子を連れて永住帰国した。
星さんの住まいは、父がいた那須町豊原丙の「千振」。永住直前に父は急逝したが、その場所で生活を始めた。
千振は、満州の「千振開拓団」が中心となって戦後、再入植して切り開いた酪農地帯だ。
理解ある経営者の工場で働いたが、考えをまっすぐ主張する中国の習慣を貫くと、同僚らと何度もぶつかった。
中国で経験を積んだ内外装を手掛ける建築職人に転職する。すると収入も上向き、暮らしは落ち着いた。だが会話の機会が少ない分、日本語の上達はゆっくり。今も日本語に難儀してしまう。
千振の人の多くは、親らと苦楽をともにした「身内」。星さんは「千振の人に救われている」と思う。
移住して、間もないころ。「言葉が分からなくても、仕事は見ればできる」。町長だった益子重雄(ましこしげお)さんの計らいもあり、中国人だった妻の芳子(よしこ)さんは地元保育園の用務員として雇われ、日本語も上達した。
◇ ◇ ◇

満州での母やきょうだい4人の様子も、千振の人から教えてもらった。
ソ連軍侵攻後の混乱で、兄と姉はそれぞれ中国人に引き取られた。2歳だった妹は「足手まといだ」と毒を飲まされ「集団自決」の犠牲になった。母は1歳の弟と外出し、撃たれたらしい。
「戦争は人を死なせ家族もばらばらにする」。星さんが「絶対にだめだ」と言う理由だ。
今、日中関係はぎくしゃくしている。「原点は日本による侵略」と位置づける星さんは「それをきちんと認識しなければ始まらない」と考える。
「戦争を忘れてはならない」。その思いは強まっている。