
1944(昭和19)年3月、日本軍が英領インド北東部の攻略を目指し「インパール作戦」を始めた。ビルマ(現ミャンマー)から山脈を越える進軍。食料や弾薬の補給もままならず、3万人超が戦死した。後に“最も無謀な戦い”とも呼ばれるようになった。
本紙では3月24日付の1面で「印度国境を突破 進む日章旗と三色旗」と地図付きで詳報した。別の記事では「希望と雄軍の作戦に我らの心は明るく拓けゆくのを覚える」とつづった。
同作戦は山の奥地で迎え撃つ敵軍の術中にはまり同年7月、撤退に追い込まれた。しかし7月の本紙に撤退記事は確認できず、別の戦地を写した軍許可の写真や大本営発表による戦況記事が連日のように並んだ。
同じ頃、東条英機(とうじょうひでき)内閣が総辞職し、小磯国昭(こいそくにあき)内閣が発足。学童疎開も始まり、8月には沖縄県から九州へ向かった疎開船「対馬丸」が米軍の魚雷攻撃で沈没し、学童784人を含む1484人が死亡した。
この年、学徒動員の通年実施や神風特攻隊の出撃も始まった。12月には死者・行方不明者約1200人に上った昭和東南海地震が東海地方を襲った。