卒業証書を見つめる青木さん=7月上旬、宇都宮市下栗町

予科練の制服に身を包む19歳の青木さん=1944年10月

卒業証書を見つめる青木さん=7月上旬、宇都宮市下栗町 予科練の制服に身を包む19歳の青木さん=1944年10月

 早稲田実業学校の卒業証書を手に、宇都宮市下栗町、青木邦三郎(あおきくにさぶろう)さん(98)は80年前を振り返った。「弁護士になりたかったんだ」。卒業証書に目を落としながら、諦めざるを得なかった夢を口にした。

 4年生の時、甲種海軍飛行予科練習生に合格した。太平洋戦争の戦況悪化で、学生も兵力として請われた時代。予科練への志願は「そういう雰囲気だったので仕方なく」だった。

 学校を中退し1944年4月、土浦海軍航空隊に入隊した。

 「軍事精神をたたき込んでやる」。入隊後間もなく教官から突然、「海軍軍事精神注入棒」で尻を2発殴られた。無線通信の授業ではミスをするたびに殴られた。理不尽だった。

 1年が過ぎた45年6月10日、航空隊は米軍の空襲で壊滅した。建物の大半が焼け、約300人が犠牲になった。「防空壕(ごう)に爆弾が直撃し、たくさんの人が亡くなった」。難を逃れた青木さんは、仲間たちの遺体を荼毘(だび)に付した。

 戦争末期、予科練教育は中止され、新たな特別攻撃隊が編成された。航空特攻要員は約800人。青木さんはその一人となった。

 死ぬための訓練は、秋田県合川町(現北秋田市)で行った。特攻機「桜花」や「神龍」を想定し、訓練を繰り返した。何度も人力でグライダーを飛ばして滑空する。汗でぬれた帽子には塩の跡が付き、便には血が混じった。日々の訓練に忙殺され、死への恐怖心を抱くいとまさえなかった。

 訓練は終戦まで約2カ月間続いた。解放され、覚えた安堵(あんど)感。時間がたつにつれ、死への実感が湧き、怖くなった。「(特攻は)とにかくめちゃくちゃで、人権なんて関係なかった。二度とやっちゃいけない」。当時を思い返し、青木さんは憤る。

 戦後、仕事や慈善活動に打ち込んだ。「命があるだけ自分は幸せ。一生懸命、世のために尽くそう」との思いからだった。

 82歳になった2008年、早稲田実業学校の卒業式に招かれた。本来卒業するはずだった日と同じ3月28日。戦争に青春を奪われた元学生たちが出席し、63年越しに卒業証書を受け取った。

 「ありがたいことです。下手すりゃ若くして人生が終わっていたものを、ここまで生きている」。卒業証書は自宅の手が届く場所に、大切にしまっている。