日本兵は祖国から遠く離れた異境の地で散っていった。敗戦の色は濃くなる。市民が守ってきた本土の暮らしにも、空襲の脅威が迫った。
「絶対国防圏」の拠点サイパンの陥落から4カ月後の1944年11月、米軍はサイパンを含むマリアナ諸島の航空基地整備を終える。
日本は大規模空襲に見舞われるようになった。
終戦までの本土の犠牲者は原爆も含め民間人50万人、軍人20万人。県内でも785人以上に上るとされている。
群馬県境にほど近い足利市百頭町(ももがしらちょう)。上空に突如、9機編隊のB29が現れた。45年2月10日。硫黄島では日米戦が激化する時期だった。
「キラキラしてる」。百頭町の自宅から編隊を見上げていた12歳の阿部文司(あべぶんじ)さん=取材当時(82)=は、輝く機影の美しさに感心しただけ。
米軍の攻撃目標は軍需工場に限られると考えていた。まして76戸の小さな農村。「こんな田舎が狙われるなんて」。思いもよらなかった。
衝撃とともに83発の250キロ爆弾と無数の焼夷弾(しょういだん)が降り注いだ。百頭空襲では33人が命を落とした。県内初の空襲犠牲者だ。阿部さんも父を失った。
いつどこで市民が標的になるのか。もう、それも分からない局面に入った。
百頭空襲 ■ 「空におびえながら暮らしていた」
県内爆撃の序章 突然に 阿部文司さん(82)(足利)

戦後70年目の慰霊祭は粛然と営まれた。
8日、足利市百頭町の地蔵院。空襲を語り継ぐ地域ぐるみの式典だ。
阿部文司さんは、42歳で犠牲となった父幾之助(いくのすけ)さんに祈りをささげた。
空襲直後、亡くなった人の初七日として地域の第1回合同慰霊祭が行われた。「あの日は空襲警報が鳴ったんだよな」。阿部さんはかつての慰霊祭に思いをはせた。
上空に数十機の艦載機が現れ、参列者はクモの子を散らすように逃げ帰った。
爆弾は落とされなかったが、犠牲者を悼む暇(いとま)さえ許されなかった。
「空におびえながら暮らしていた」
◇ ◇ ◇
陽光が反射し輝く銀色の機体。
1945年2月10日午後、東から飛来したB29。最初の編隊は上空を通過し西に向かった。その方向には、中島飛行機太田製作所がある。「太田を狙うのだろう」
すぐに太田方面から響いた爆発音。5キロも離れているのに、間近に聞こえる。
「防空壕(ごう)に入れっ」。切迫した祖父の声によって、家族は庭の壕に向かい、警防団員の父は近くの詰め所に急いだ。
壕に入ると、たちまちごう音が耳をつんざき、大地ごと縦に揺さぶられた。幼い弟が泣き叫ぶ。
数分後、阿部さんが外に出ると、さっきまであった家々がない。爆風で倒れたり、炎と黒煙を上げたり。
かろうじて残った自宅にも、隣家から激しい火の手が迫る。食料や家財道具を運び出したが、後続のB29が現れるたび、背筋を凍らせた。
父は警防団の詰め所前で倒れていた。
目より上の頭がない。爆弾の破片に当たったのか、鋭利な刃物で切られたようだった。
◇ ◇ ◇

地蔵院に続々と見知った人たちの遺体が集められる。首や手、足。どの遺体も一部がなくなっていた。しばらくは近くの川から肉片が見つかり、田畑を耕せば人骨が掘り出された。
空襲後、学校で「百頭の子はおとなしくなった」と言われた。阿部さんは、平気だった雷が怖くてたまらなくなっていた。
4月、再び爆撃を受けた。「なぜここばかり」
集落北に中島飛行機の分工場を建設する話があった、と後に思い出した。結局は造られなかったことも。
「中止された計画のせいでおやじは…」。家族思いだった農家の大黒柱を奪った不条理を嘆くしかなかった。
「それが戦争の悲惨さだ」
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現在91歳の阿部さんに聞く 変わらぬ思い、後世へ

91歳となった阿部文司(あべぶんじ)さんは今も変わらぬ場所で暮らす。足利市百頭町(ももがしらちょう)。1945年の空襲当時は12歳、小学6年生だった。
あれから79年が過ぎた。「この地域で年齢が俺より上の人はもういない。空襲の経験者も、話ができるのも俺以外いない」。阿部さんは、風化に危機感を抱く。
空襲犠牲者の慰霊祭は戦後70年の2015年を最後に途絶えた。自宅近くの地蔵院で断続的に営まれてきたが、地域住民が高齢化するなどして集まりにくくなった。阿部さんは「語り継ぐためにやってほしい思いはあるが、もう難しいのかな」と漏らす。
地蔵院には、百頭町戦災者慰霊の碑が残る。戦後40年に当たる1985年に建った。
「250キロ爆弾83発と数え切れない焼夷(しょうい)弾」「一瞬にして七十数戸の家屋が破壊焼失」-。空襲の状況を記す慰霊碑には、犠牲となった33人の氏名が刻まれている。阿部さんの父幾之助(いくのすけ)さんの名もある。
阿部さんは遺族代表として、建立の資金集めなどに携わった。慰霊碑を見ると、あの日の様子がまざまざとまぶたに浮かぶ。つらいが、後悔はない。慰霊碑が戦禍を伝え続けるからだ。
父を失った後、阿部さんは5人きょうだいの長男として一家を支えた。中学時代、放課後に遊び回る級友を横目に、コメ作りに励んだ。26歳の時に結婚。3人の娘を育て上げ、孫は2人できた。
数年前、大学生の孫に戦争体験を語った。論文執筆のためにと、東京都内から訪ねてきた。それまで孫に話したことはなく、初めての事だった。
空襲で当時の自宅は全焼し、戦時中の写真などは残っていない。上空に見えたB29、防空壕(ごう)に響く爆音と振動、そして変わり果てた父の姿。記憶をたどりながら、45分ほどかけて伝えた。
孫と向き合い、後世に語り継ぐ大切さがあらためて身に染みた。「今の時代を生きる人なりに感じてくれればいい」と感想は聞かなかった。ただ願いは届いたと信じている。
「戦争ってのは悲劇になる。だから、やんねえほうがいい」。79年間、その思いは変わっていない。