学徒 ■ 風船爆弾「知らずに加担」
五味渕みどり(87)=那須烏山
「こんな田舎におかしい…。ばれたのか」
父親のつぶやきが耳に残っている。
1945年7月7日。米軍機が烏山町(現那須烏山市)中心部に焼夷弾(しょういだん)を投下した。烏山実践女学校(現烏山高)を卒業して間もない16歳の少女、五味渕(ごみぶち)みどりさん=取材当時(87)=(同市中央2丁目)の自宅のすぐそばが炎に包まれた。
「疑問を持ってはいけなかった。従わなければいけない時代だったから」
◇ ◇ ◇
44年11月から、市内の「特殊加工株式会社」で作業に従事した。「気球をつくる」と聞かされていた。

縦1間(約1・8メートル)分、細長い板に薄い和紙をのせ、粉こんにゃくと薬品を混ぜて塗り、貼り合わせる。乾いたら丁寧に和紙をはがし、縄を丸めたタワシで板を洗う。でこぼこがあると、上手に和紙を貼り合わせられない。
「きれいにやれ」
難儀したが、厳命され、一生懸命に洗った。
「どこに飛ばすの?」
工場の責任者だった父親に尋ねると、「誰にも言うな」と意外な答えが返ってきた。
「和紙を東京に送り、爆弾を仕掛け、(福島県の)勿来から米本土に飛ばす」
気球の正体は、「風船爆弾」だった。
◇ ◇ ◇
直径約10メートルもの「巨大風船」は、約8千キロ離れた米ロッキー山脈を越え、爆発。死者も出た。
「すごい。役に立てた」
初めはそう思えた。
しかし、戦争で、女学校の先輩の婚約者や夫が次々亡くなっていた。
「自分で手を下さなくとも、人を殺したのと同じ」
少女のころに感じた「嫌な」思いは、70年たった今も消えない。
「知らず知らず加担していた。それが戦争。未来永劫(えいごう)してはいけない」
■学校生活奪われ、悔しい
村上正英さん(84)=那須烏山

旧制今市中(現今市高)3年だった14歳の時、古河電工日光電気精銅所に動員された。寮に入り、戦闘機に使うジュラルミンを炉でのばす作業をしていた。
「いつも空腹で、母が持たせてくれた炒(い)り豆を少しずつ食べて我慢した。昼は何も考えられないほど暑く、夜勤では立ったまま寝てしまった。作業事故で亡くなった先輩もいた。憧れだった中学生活を奪われ、悔いが残る。あんなことはあっちゃいけない」
■戦闘機造り喜ぶ恐ろしさ
菊地光昭さん(87)=足利

足利工業学校(現足利工業高)2年から日本最大の軍用機工場、中島飛行機太田製作所へ。1945年2月10日に爆撃を受けた。
「軍歌を口ずさみ喜び勇んで通った。戦争へ行き、天皇陛下のため死ぬのが日本男児の誉れ。それ以外何も考えられないよう洗脳されていた。2月10日の衝撃と、灯火管制の闇を歩いて帰った時の不安は忘れられない。今の若い人は戦争の本当の恐ろしさを知らない」
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長女・礼子さんに聞く 伝えるのが体験者の遺志

太平洋戦争末期、上空の偏西風を利用して米国本土を狙った無差別爆撃兵器「風船爆弾」。戦時下の学徒動員で、原材料となる和紙の製造などに携わった五味渕(ごみぶち)みどりさんは2017年9月、89歳で亡くなった。
「知らぬ間に戦争の片棒を担がされ、つらい記憶と共に生きる。悔しかったと思います」。五味渕さんの長女永井礼子(ながいれいこ)さん(69)=市貝町=は遺影を手に母を浮かべた。
風船爆弾の事は約40年前、母の体験談を通して知った。「アメリカまで飛んでいくわけないじゃない」と率直に思った。
9千発以上放たれたという爆弾。その多くは米国本土に届かなかったが、不発弾に触れた民間人が犠牲になった。その事実に五味渕さんはショックを受け、後悔の念を抱いていた。永井さんは「やむを得ない状況とはいえ、間接的に関与してしまった母を思うと、気の毒で仕方ない」と語る。
五味渕さんの誕生日は「広島原爆の日」と同じ8月6日だった。迎えるたびに、嫌でもあの頃が思い出される。誕生日を素直に喜べていなかった母の姿を思い返し、永井さんは「戦時中に引き戻されるような感じだったのかな」と、おもんぱかった。
五味渕さんは国のために従わなければならなかった時代を生き、やりたいことも自由にできない青春を過ごした。
永井さんは「同じ経験をさせたくないという思いからか、好きなことをさせてくれた」と振り返る。幼少期から音楽が好きで高校卒業後、音楽大学に進学した。その後、ピアノ講師や県内の高校で非常勤講師として働き、今もチェロやオカリナを演奏している。「音楽を続けられていることが最大の贈り物」とほほ笑んだ。
「戦争は未来永劫(えいごう)してはいけない」
戦後80年を前に、母の言葉をあらためて胸に刻んでいる。「終戦時、誰もが『二度と起こしてはいけない』と思ったはず。その思いを親から子、子から孫へと伝え続けることが、母をはじめとした体験者の遺志だと思う」