『U字工事福田薫さんの両親(上)』はこちら

 豊子さん 私は感情豊かで素直な思いやりのある子に育ってほしいと思っていました。厳しくしつけ、礼儀作法にはうるさかったので、薫は面倒な母親だと思ったかもしれません。
 悪いことをした時は、後から言うと忘れてしまうのでその場で注意をしました。そして座らせて、なぜ叱られているのかを確認しました。ただ怒っても意味がないので、お互い納得できるよう徹底的に話をしました。もし私が悪い時には謝り、正面から向かっていきました。子どもの友達にも自分の子と同じように接する考えで、よその子でも叱りました。
 子どものいいところは伸ばしてあげたいとも考えていました。そのためには、ある程度子どもに責任を持たせて、選択させることも大切だと思いますね。

幼稚園の遠足で上野動物園へ行った5歳頃の薫さん(左)

 マナーを学び、外国人にも気後れしないよう、小学2年の頃、家族で東京の京王プラザホテルに泊まりに行ったこともありました。
 思い返すと、薫は小さい頃からお笑い番組や落語のテレビ番組を見ていました。録画して、何時間でも見ていました。ネタをやるとか目立ちたがるタイプではなかったので、高校でコントの練習をしていると聞いた時はびっくりしました。
 保さん 最初は(益子(ましこ))卓郎(たくろう)君とは違う人と組んでいたようです。大田原高は真面目な生徒ばかりなので、お笑いなんてとんでもないと思っていました。高校3年の時、卓郎君が家に来て、私に「(今はトレードマークの)赤いネクタイを貸してください」と言ったのを覚えています。
 豊子さん 大学は家から通えない所へ行くことが私の条件でした。親としては寂しいけれど、世の中の苦労を知るために、1度外へ出した方がいいと思います。

高校3年の時、地域のお祭りで相方の益子卓郎さん(右)と漫才をする(左)

 保さん 私の父は明治生まれで、自分が好きなことをさせてもらえませんでした。漫才師になりたいと言われた時は、親として悩みましたが、好きなことをさせてあげたい、反対してもやるだろうと考えました。大学卒業後の売れない下積みの10年間は大変でした。薫は私と酒を飲むのが好きなので、帰ってきてはいつも「(お笑いを)やめる」と言っていましたが、東京に帰ればやめずに続けていました。今、薫は自分のやりたいことを仕事にできて幸せだと思います。
 豊子さん 下積み時代はこちらは必死になって働いて、お米や野菜、焼いた魚などを送りました。子育ては自分たちだけ良ければいいわけではないので難しいです。思いやりが必要ですよね。