義母一枝(かずえ)さん(享年89)の手記をまとめた真岡市、小倉芳子(おぐらよしこ)さん(75)の投稿です。一枝さんは、中島飛行機=後のSUBARU(スバル)=の宇都宮製作所に学徒動員されていました。
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真岡高等女学校(現真岡女子高)の学生だった義母は1944年秋、戦闘機の生産拠点だった同製作所で働くことになりました。担当はジュラルミンの板の加工など。広い敷地内には工具や機械が所狭しと並び、機械音が入り交じって騒々しかったそうです。
45年春、空襲を避けるために工場は宇都宮市大谷町の採石場を利用した地下空間へと疎開しました。
資材が運び込まれ、義母の仕事場もそこへ移りましたが、地下はじめじめしていて寒く、少し働いては地上に出て暖をとるのを繰り返したと書いています。
終戦間際の頃、寮生活をしていた義母らは「どうせ死ぬのであれば家族と幸せな時間を過ごして死にたい」と、夕食後に仲間でこっそり寮を抜け出しました。
30分ほどで先生に見つかり連れ戻されましたが、悔しさを感じる心のどこかに「これでよかったのかもしれない」という複雑な思いもあったそうです。寮の廊下で1時間ほどお説教をされたといいます。
8月15日、義母は食べ物を分けてもらいに行った近くの農家で敗戦の話を聞きました。「悔しさと無念さが悲しく残るだけでした」と記し、手記を締めくくっています。
義母は戦時の苦労を後世に伝えたいと当時の経験を書きためていました。
戦争は絶対やってはいけないと強く思います。手記とウクライナ情勢を重ね、巻き添えになるのはいつも子どもたちだと、やりきれなさを感じます。