宇都宮空襲当時、宇都宮市簗瀬国民学校(現簗瀬小)の近くに住んでいた宇都宮市、礒美代子(いそみよこ)さん(89)の話です。
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当時、自宅の近所には田んぼが広がっていました。春はレンゲの花飾りを作ったり、秋はイナゴを捕まえたり、一年を通して田んぼは私たち子どもの遊び場でもありました。
1945年7月12日夜。空襲警報を合図に防空壕(ごう)へと逃げ込みましたが、火の手が迫ってきて、母と兄の3人で田んぼのある方に避難しました。田んぼの中には私たちのほかにも大勢の避難者が詰めかけていました。
稲の間に見えた水面(みなも)に、火の玉が消えずに浮いていました。どろっとした、寒天を丸めたような油の塊。「きれい」と子ども心に感じたのを覚えています。焼夷弾(しょういだん)の残り火だったのでしょうか。
家はすっかり燃えてしまいましたが、風呂おけは焼け残っていました。水は貴重だからと、おけから水を抜かないでおいたのが功を奏したのかもしれません。
終戦後は掘っ立て小屋での生活でしたが、近所でも風呂おけが残っていたのはわが家だけでした。そのため、近所の人もお風呂はわが家で入っていきました。
空襲の頃は無我夢中で、むしろその後のつらい生活の方が印象深いです。戦争は決してあってはなりません。