ウクライナでロシアの軍事侵攻による戦争が勃発した。爆撃で破壊された街並みや大切な家族を失った人々-。同じような光景は77年前、栃木県内でも起きていた。下野新聞は今年、戦争を語り継ぐキャンペーン「#あちこちのすずさん」と連携し、戦時下の暮らしにまつわるエピソードを募集している。戦争は私たちの穏やかな生活をどう変えてしまうのか。「日常」を切り口に、戦争と平和を身近な問題として考えたい。戦時下の思い出を文集「あの頃」にまとめ、後世に伝えようと活動している宇都宮女子高同窓生らの体験談を、募集に合わせて紹介する。

大塚豊子さん

 ウクライナで起きた戦争の映像を見ると、宇都宮空襲の体験がよみがえり、つらくなってテレビを消してしまいます。

 〈1945年4月、12歳で宇都宮第一高等女学校(現・宇都宮女子高)に入学。同年7月12日夜、空襲で現在の宇都宮市中央1丁目にあった家が被災した〉

 「ドン」という音で目が覚めました。窓から外を見ると、周囲は真っ赤な炎でまぶしく、近くの松が峰教会が燃えていました。防空頭巾だけをかぶり急いで家を出ながら、本箱に大事にしまってあった刺しゅう糸のことが頭をよぎり、玄関の本棚にあった「芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)全集」や「銭形平次捕物帖(ぜにがたへいじとりものちょう)全集」が惜しい、とも思いました。

 夜が明けて家に戻ると、骨組みまで焼け落ちていましたが、母が前夜、準備しておいた大豆入りのご飯が大谷石のかまどの上で炊けていたんです。皆で変に感激し、焦げた梅干しをおかずにご飯を食べました。そのおいしかったこと!

 〈空襲の約2週間後、宇都宮駅近くで、機銃掃射に狙われた〉

 戦闘機が、操縦士のサングラスと白いマフラーが見えるほど低空飛行で近づいてきたんです。地面に伏せると、体の脇を「タタタタタ」と弾丸が走り、乾いた土煙が立ちました。その後50代になっても、その時の恐怖で夜中に目覚めることがありました。

 〈8月15日に終戦。夜の灯火管制が解除された〉

 「電灯を付けて本が読めるんだ」と思いました。くだらないことだけど、すごくうれしかったです。

 でもその頃はまだ、地下に掘った防空壕(ごう)の焼け跡で、電気のない生活をしていました。そんな生活を見られるのは恥ずかしかったけれど、友達は何も言わず、毎朝一緒に笑顔で登校してくれました。優しい友達で、ありがたかったですね。

*次世代への伝言*
 当時の国民全員が戦後の日本の再建に努力をして、豊かで平和な社会を築きました。その恩恵を大事に受け止めて、資源やエネルギーを無駄遣いせず、大事に使ってほしい。戦争は一人一人の人生に何十年も影響を残します。今後、戦争のないことを祈ります。