山本五十六の戦死に際し思いをつづる日記

増子育男さん

山本五十六の戦死に際し思いをつづる日記 増子育男さん

 少年時代、戦時下の日々を日記につづっていた那珂川町、増子育男(ましこいくお)さん(94)の投稿です。

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 戦争当時、私は宇都宮市の「宮の橋」近くの寺院に下宿しながら、県立宇都宮農学校(現宇都宮白楊高)に通っていました。

 1943年5月、山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官の戦死が公表された日のことを、15歳の私は日記に書いています。

 戦死により山本長官が元帥となったことを「この上もない名誉」とたたえ、「こうなると我々国民も、もう少し気を引き締める必要がある」「いよいよ戦もこれからである」と記し、最後は「だせ一億の底力」と大書きしています。

 やがて本土決戦が近づくと、当時の私は「竹の棒で敵兵を突き刺してやる」と本気で思っていましたから、軍国主義とはすごいものです。戦争に負けるとは全く思っていませんでした。早く学校を出て、お国のために頑張らないと駄目だと考えていました。

 戦後、日本に小麦や脱脂粉乳をもたらし、殺虫剤DDTで人々を消毒までしてくれた米国には「何だ、これは。想像していた姿と違う」と驚かされました。

 玉音放送の後、「男は皆殺されるか、強制労働に駆り出される。女は女郎にされる。おしまいだ」と思っていましたから。