空襲の日、栃木県庁近くの栃木師範学校(現宇都宮大)の寮で病に伏せていたという宇都宮市、手塚(てづか)イツさん(93)の手記。
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私は急性腸炎で生死の境をさまよっていた。交通の不便な茂木町からバスを乗り継いで母が駆けつけてくれたのは、昼ごろだった。
夜になると、空襲警報とともに大勢の友達が防空壕(ごう)に退避するためどやどやと駆けだした。その足音を、夢うつつに聞いていた。市街地が燃え上がった時、窓ガラスを遮光紙で覆った部屋の中で、私の枕元にいた母がどんなにうろたえていただろうか。
幸い寮は焼け残り、私は病の峠を越えた。寮に帰ってきた友達が、無事を喜んで次々と訪ねてくれた。
先輩の君島久子(きみしまひさこ)さん(現国立民族学博物館名誉教授)は、勝ち栗を持ってきてくれて「焼け跡はこんな匂いがするのよ」と言った。私は久子さんと手を握りあって、泣いてしまった。
その後1週間ほどで、私は茂木町の家へ戻ることができた。迎えに来たトラックに荷物を積み込み、助手席に乗った。焦げ臭いにおい。がれきの山。枝先の焼けた木。屋根が落ちた大谷石の蔵-。
焼け野原を目の当たりにしながら、あのつらい緊張の時間を耐え、子を守り抜いた母の強さとありがたさを身をもって受け止めた。