経験値高まったヨーロッパ活動

―選手がチームを移るときには、心に期すものがあると思います。ブリッツェンからブリヂストンへの移籍する時はどんな思いでしたか。
ブリッツェンで走れるようになり、結果も出ていましたので、当時ヨーロッパでレース活動をしていたブリヂストンの一員としてあちらの世界を見てみたいという思いが強かったですね。
―ブリヂストンでの2シーズンはいかがでしたか。
1年目はヨーロッパで活動していたのですが、2年目にはチームの事情でヨーロッパの活動がなくなりました。やはり海外レースではなかなか優勝などの結果を出せず、難しさを痛感しました。選手としての経験値が高まって良かったとチームには感謝していますが、自分としてはまだ海外で戦いたいという気持ちがあったので、ヨーロッパで活動していたキナンに入れてもらいました。
―ブリヂストン時代にツアー・オブ・ジャパンのステージ3位などの結果を残しています。
自分はとにかく勝ちにこだわっていましたから、勝てなければ悔しいですよね。実際、ブリッツェンにいた2016年にツール・ド・熊野やJPTで優勝して以降はJPTでも優勝がありませんから。
―3年間、勝ち星から遠ざかっていることについてどう受け止めていますか。
アジアツアーなどレベルの高いレースが中心となり、JPTにはあまり出ていなかったということはあります。ただ、ブリッツェン時代は、チームとかみ合っていたというか、自分はエーススプリンターを任されていたので勝てるチャンスにいられることが多かったですね。チームメートがしっかりお膳立てしてくれていたということだと思います。
宇都宮のありがたさ感じた
―いつかブリッツェンに戻りたいと考えていた最大の理由は何ですか。
宇都宮が住みやすいし、自分に一番合っていると思っていたからですかね。三重に移り住んでみてあらためて宇都宮のありがたさを感じました。自転車をやっていても本当に多くの人が熱心に応援してくれます。そういうことが自分たちの最大の活力になるわけで、ブリッツェンは本当に地域に根付いているチームだと思いますね。いつもチームのみんなが楽しそうで、雰囲気が良いのも魅力です。ブリヂストン時代、一緒にブリッツェンから移籍した堀選手と「ブリッツェンはいいよね」とか話したこともありましたから(笑)。
ブリッツェンに在籍していた2016年7月のインタビューで、当時27歳の大久保は「スプリンター」としての在り方についてこう語っている。
「『死んでもいい』と言ったら大げさですが、常にこけてもいいと思ってやっています。ちょっとでも怖いと思ってしまったらもうダメなんですよ。ですからレース中は恐怖心のねじのようなものを緩めるようにして」
「スプリントでエースを任されたとき、スプリント自体で失敗するのは残念ではあっても仕方がないことでもあるんです。スプリントには水物と言える部分もあるので。でも、自分に力がなかったり、調子が悪かったためにゴールまでついていけないような時には本当に悔しくて仕方がありません」
3年経った今、追い求めるスプリンター像は変化しただろうか。
(この記事はSPRIDE[スプライド] vol.35に掲載)